【サッカー小説】カテナチオ炎上:VOL.1「アンチ・カテナチオ」
閂(かんぬき)と呼ばれたフットボールがあった。固く門を閉じれば、蟻の子一匹通さない――カテナチオは1960年代に隆盛を極める。得点の多さを競っていたフットボールは、より少なく失点することを競うゲームに変貌していった。その最高峰には、「魔術師」と呼ばれた“HH”ことエレニオ・エレーラ率いるインテルが君臨していた。しかし、やがてドイツで、オランダで、冷笑的な勝利至上主義を打ち壊す動きが始まる。フットボールとは何か? 一つの時代を築いたカテナチオと、それに挑戦した人々の対立には、根源的な問いが含まれている。
ケルン体育大学
「で、それから?」
ケルン体育大学の講義室。教官のヘネス・バイスバイラーと数人の受講者がディスカッションをしていた。
「それから、ですか?」
「うん。トビー、もし続きがあるなら話してくれ」
バイスバイラーは38歳の若さでコーチ養成コースの指導者になっている。クラブチームの監督なども務めながら、結局13年間も「コーチのコーチ」を続けた。現在は「ヘネス・バイスバイラー・アカデミー」という名称になっている。
バイスバイラーに促され、受講者トビーは“カテナチオ”について話を続けた。
「えー、カテナチオは勝率の高い方法であることをすでに説明しましたが、システムと機能性はチームによって違いがあります」
ACミランとインテルを例に挙げた。
「ミランはネレオ・ロッコ監督の下でチャンピオンズカップを2度獲っています。最初は1963年、2度目はつい先日ですね。インテルの方は1964、65年と連覇、インターコンチネンタルカップでも優勝しているのは、みなさんご存じの通りです」
トビーによると、ミランとインテルの守備戦術は同じ「カテナチオ」ではあるが、攻撃面で少し違いがあるという。
「マンツーマンで敵のアタッカーを漏れなくマークし、“リベロ”がカバーをするのは同じですが、ミランは3人のFWがいます。一方、インテルは変則的ですね」
インテルにもFWは3人いる。右ウイングにジャイール、左にマリオ・コルソ、CFアウレリオ・ミラーニ。
「ただ、インテルの3トップは左右が非対称です。右のジャイールは右サイドを上がったり下がったりですが、左のコルソはどこが定位置なのかよくわからない。中盤でプレーしますし、右サイドにも行きます。インサイドFWにマッツォーラがいるので4トップとも言えますが、守備の時はミラーニをトップに残して引くので1トップなのかもしれません。
いずれにしても、彼らの強みはカウンターアタックですね。ボールを奪うや否や、フルバック(サイドバック)もすかさず攻撃に飛び出していき、そこへ深い位置にいるルイス・スアレスから正確なロングパスが出て、一気にゴールへ迫っていきます。堅固な守備からのカウンターアタックは、現在でも最も効率的なプレースタイルと言えるでしょう。フットボールがロースコアのゲームである限りは極めて有効かと思います。まず、失点を最小限に抑えられる。そして、回数は少なくても得点チャンスのある攻撃は必要十分と言えるでしょう」
トビーが一気に説明し切ると、少し間を置いてバイスバイラーは同じ質問を重ねた。
「なるほど。で、それから?」
「それから……ですか?」
トビーが返答に困っていると、受講者シュワルツが助け船を出した。
「トビー、インテルは1967年のチャンピオンズカップ決勝でスコットランドのセルティックに負けている。カテナチオの時代はすでに終わっているんじゃないかな」
「いや、そうでもないと思う。カテナチオはすでに修正を始めている」
トビーはなかなかのイタリア通である。確かにインテルはセルティックに敗れて3回目の優勝は逃した。セルティックの流動的なポジショニングと攻め込みに対して、インテルの徹底したマンマークは振り回され、かえってスペースを与えることになったのが敗因だった。
「シュワルツ、インテルは完全なマンマークから部分的なゾーンディフェンスへと修正を始めているんだ。中盤をゾーンで網を張りつつ相手の攻撃速度を吸収しながら後退し、ゴールに近づけば従来通りのマンマークとリベロのカバーで守備を固めれば弱点はない」
シュワルツとトビーの議論がしばらく続いたが、まもなくバイスバイラーは3度目の問いを投げかけた。
「そうか。2人ともよく調べているな。で、それから?」
トビーとシュワルツは顔を見合わせ、どちらともなく言った。
「あの、先ほどから同じ問いかけをされていますが、これ以上何を聞きたいのですか?」
バイスバイラーは未来の監督、コーチたちをゆっくり見回して、ぼそりと意外なことを言った。
「で、いったい何が面白いのかな?」
反逆とヘヴィメタル
「私にとっては退屈ですね」
ユルゲン・クロップは、FCバルセロナを「退屈」と言ってしまった。さすがにインタビューアーも驚くと思ったのか、例の満面の笑みをつけ足して悪意がないことを示したが、もう言ってしまったのだから仕方がない。
「もし、私が子供の頃に現在のバルセロナのフットボールを見ていたら、フットボーラーではなくテニスプレーヤーを目指していたかもしれません」
クロップにとってのフットボールとは、バルセロナがプレーしているようなものではないのだ。パスを回し続け、ほとんどハーフコートでゲームを進める、ジョセップ・グアルディオラ監督に率いられるバルセロナは、そのピークにおいてまるで1つのチームしかプレーしていないような試合を続けていたが、クロップが求めているのはそれではなかった。
UEFAチャンピオンズリーグのアーセナル戦を前に行われたインタビューで、ドルトムントを率いるクロップはアーセナルを「クラシック」、自分たちは「へヴィメタル」だと形容している。クラシックが悪いというわけではない。クラシックには洗練と格調と歴史がある。ただ、自分たちはそれではない。好みの問題だが、それでは血が騒がないのだと。
クロップのフットボール観は、ドイツに根強くあるものでもある。
ボルシア・ドルトムントはエンブレムの「09」が示しているように1909年の創立だ。ちなみにボルシア・ドルトムントは略称で、正式名称はバルシュピールフェアアイン・ボルシア・ヌル・ノイン・エー・ファウ・ドルトムントとかなり長い。BVBはこの長い名称を短縮したもの。バルシュピールフェアアインとは球技クラブの意味である。
創立のきっかけは「反発」だった。カトリック教会の管轄下で若者たちが日曜日にプレーしていたのだが、チームは教会の祭司から数々の嫌がらせを受けていた。ミーティングルームに使っていたパブの出入口を封鎖され、ゴールポストを切られて焚き火に使われるなど、かなり酷い仕打ちである。堪忍袋の緒が切れた若者たちが自分たちで新たにクラブを立ち上げた。チーム名の「ボルシア」はラテン語でプロイセン王国のことだが、どうも地元のボルシアという名のビールが由来らしい。
ともあれ、血気盛んな若者たちが教会という権威に反発して創立という経緯と記憶は、このクラブのDNAのどこかに残っているのかもしれない。クロップが監督に就任したBVBは、若くて走力のある選手を集めてバイエルン・ミュンヘンに対抗するまでにのし上がった。巧い選手を集めてもオールスターのバイエルンには勝てない。それでは第2の、小さなバイエルンになるだけだ。クロップはバイエルンとは違う、若くて恐れを知らず、ガンガン走る、アグレッシブな戦法でバイエルンに対抗し1強体制に風穴を空けている。
クロップのBVBは、同じ「ボルシア」の名を持つあるクラブを思い起こさせた。
裸のフットボール
ヘネス・バイスバイラーがボルシア・メンヘングラッドバッハの監督に就任したのは1964年。19歳のギュンター・ネッツァーやユップ・ハインケスなど、若手ばかりのチームの平均年齢は21.5歳。ドイツで最も若いチームは「子馬」と呼ばれた。翌年には西地区1位でブンデスリーガへ参入を決めている。インテルがチャンピオンズカップ連覇を達成した年だ。
ブンデスリーガに参戦した1965年には、やはり10代のベルティ・フォクツが加入。このシーズンこそ13位だったが、その後は8位、3位、3位とあっという間にドイツの強豪にのし上がると、1969-70シーズンにリーグ優勝。その次のシーズンも優勝して、ブンデスリーガ史上初の連覇を達成した。
初めてブンデスに参戦した時から、ボルシアMGはしばしば爆発的な攻撃力を見せている。5点、6点、時には7点を決めた。プレーに波があるという欠点もあったが、連覇する頃にはそれもなくなっている。
ただ、その大胆なプレースタイルから相変わらず「子馬」と呼ばれていた。
ネッツァーたちは26歳になっていたから、もうそんなに若くもないのだが、続々と若手が加入していてプレーぶりはいつまでも若々しいままだったのだ。
バイスバイラーは「コーチのコーチ」だったようにドイツきっての理論家である。ところが、彼の指揮したボルシアMGは戦術的な縛りを極力なくしているのが大きな特徴であった。若い選手たちの自由に委ねた。いや、自由であることを強要していたと言うべきかもしれない。
選手たちとは、ざっくばらんに話し合った。ネッツァーとはたびたび激しい言い争いにもなっている。互いに自分が正しいと思ったら一歩も引かない性格なのだ。監督と司令塔の激突に周囲はいつもひやひやさせられたが、少し時間が経てば2人ともけろりとしていた。筆者はバイスバイラーとネッツァーがボールに腰かけて話し込んでいる絵を、メンヘングラッドバッハの街中で見たことがある。2人の頭脳と情熱が、小さな街のクラブを世界のトップに押し上げたことを表した絵だった。2人が視線を落とす地面には、小さな宇宙が描かれていた。
「心底つまらないと思いますね」
イタリアのカテナチオについて「どう思う?」と投げかけたバイスバイラーの問いに、ネッツァーは即答だった。
「やっぱりねぇ、俺も何が面白いのかと思うよ」
「まあ、勝つための1つの有効な方法ではあると思いますよ。ただ、あれでは自分には何のためにプレーしているのかと。言ってみれば、預金通帳の残高が増えていくのを見て喜んでいるようなものでしょう。金は使ってこそ意味があるのに、彼らはただ残高を増やすだけが目的になっている」
「金はあるに越したことはないぜ。俺が金でどれだけ苦労していると思っているんだ(笑)」
「もののたとえですよ」
バイスバイラーが若手ばかりの編成を行っていたのは、クラブに補強資金が足りないという理由も確かにあった。ただ、それだけではない。バイスバイラーは若者のエネルギーと、恐いもの知らずの無鉄砲さを求めていた。経験不足を逆手に取ろうとしていた。
ドイツ人といえば規律、秩序を重んじる国民性を思い浮かべるが、一方で自由や反逆を求める気持ちも強いと言われている。自由を恐れながら、強く自由を求め憧れる。
ヌーディスト文化が盛んな国でもある。普段はスーツ姿の堅いビジネスマンが、森の中や海岸で素っ裸になりたがる。一糸まとわぬ姿の会社の上司や奥さんと出くわすことなどもあるそうだ。ドイツの自然志向は産業革命で工業化が始まった頃から、その反動として生まれたというかなり年季の入ったものだ。
いつの間にか秩序にがんじがらめになっているストレスから、自分を一気に開放させる手段の1つなのだ。素っ裸になって、自分を取り囲む秩序や社会から一時的にせよ自由になる、反逆の旗を立ててみせる(気分になる)わけだ。
「裸になれ!」
バイスバイラーは、いわば若手をけしかけていた。秩序や献身性はすでにある。それはドイツ人の長所だが、それだけでは息が詰まる。フットボールはそれではうまくいかない。第一、面白くない。若いエネルギーを発散し、反発し、反逆する。とことん自由になってみる。算盤を捨て、混沌とした渦中に素っ裸で飛び込んでみる。
秩序と自由の間を大きく揺れる、ドイツ人の振り幅の大きさをフットボールにどう生かすか。バイスバイラーはその回答を得ていた。それはクロップがリバプールで実現したフットボールの祖型であり、多くのドイツ人が共感できるフットボールでもあった。
Photos: ullstein bild via Getty Images, Getty Images
Profile
西部 謙司
1962年9月27日、東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、会社員を経て、学研『ストライカー』の編集部勤務。95~98年にフランスのパリに住み、欧州サッカーを取材。02年にフリーランスとなる。『戦術リストランテV サッカーの解釈を変える最先端の戦術用語』(小社刊)が発売中。