アルゼンチンの戦術2大潮流と、第3派閥ビエルサによる“融合”
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2度のワールドカップ制覇を誇る南米の強豪アルゼンチン。その戦術のベンチマークとなっているのは、世界制覇へと導いた2人の名将の存在だ。異なる方向性の2つの潮流と、そしてその2つを合体させたチームで2002年ワールドカップに挑んだもう一人の名将ビエルサの足跡をたどる。
メノッティとビラルド
アルゼンチン代表には昔から2つの顔があった。やがてそれぞれの顔を持つチームが1978年と1986年のワールドカップに優勝したことで、メノッティ派とビラルド派と呼ばれるようになる。
自国開催の1978年大会で初優勝をもたらしたのはセサル・ルイス・メノッティ監督。「大衆のためのサッカー」を掲げ、攻撃的なプレースタイルを貫いた。両サイドにウイングプレーヤーを配し、中盤には小柄な技巧派オズワルド・アルディレスと、ほぼストライカーのマリオ・ケンペスをインサイドMFに並べる5トップとも言える編成。錐で穴を開けるような突撃ドリブルと即興的なコンビネーションで果敢に攻めた。メノッティにとってアルゼンチンのサッカーは本来、技巧的かつ攻撃的なものであり、大衆の望むプレースタイルを復権させたのだという。
1986年メキシコ大会を制したカルロス・ビラルド監督は、メノッティとは対照的な守備的なスタイルである。ただ、こちらもアルゼンチンの伝統なのだ。スーパーエース、ディエゴ・マラドーナに攻撃の全権を与え、残りのメンバーはマラドーナのために守り、走り、献身的にエースを支えて盛り立てた。
1940年代におそらく世界最強チームだったリーベルプレートは、「ラ・マキナ」と呼ばれ、強力なアタックラインを擁していた。メノッティがアルゼンチン本来のサッカーと言っていたのは、リーベルのようなチームが念頭にあったのだろう。ただ、同時期のボカジュニオールは強固な守備の現実的なスタイルだった。また、68年にコパ・リベルタドーレスを制したオスバルド・スベルディア監督のエストゥディアンテスはラフプレーも辞さない勝利至上主義で有名だった。その時のメンバーの1人がビラルドである。
メノッティ、ビラルドの両巨頭の後、アルゼンチン代表はメノッティ派とビラルド派の間で揺れ続けた。
1998年フランスワールドカップのダニエル・パサレラ監督は78年初優勝時のキャプテンであり、メノッティ監督の影響が強いはずだった。86年大会ではビラルド監督との対立もあった。ところが、パサレラ監督の率いたチームはどちらとも言いがたい。
フォーメーションはいちおう[3-5-2]だが、[3-4-2-1]に近い独特の編成だった。CFにエースのガブリエル・バティストゥータ、セカンドトップにクラウディオ・ロペスだが、トップ下のアリエル・オルテガはほぼ右のシャドーなのだ。3バックにマティアス・アルメイダのアンカー、ウイングバックにハビエル・サネッティとディエゴ・シメオネ。そしてアンカーのアルメイダとの縦関係にフアン・セバスチャン・ベロン。ベロンはトップ下とボランチの中間的な役割だった。
パサレラ監督のアルゼンチンは少なくともメノッティ式ではない。どちらかといえばビラルド式に近く、選手構成は「イタリア」だった。
カテナチオで知られるイタリアは、漏れなく相手のアタッカーをマーク。攻撃は司令塔、ワーキングウインガー、そして2人のストライカーという構成。ワーキングウインガーをオルテガ、司令塔をベロンと当てはめるとそのままイタリア代表の伝統的な構成と符合している。
アルゼンチンとイタリアの関係は古く、第1回ワールドカップで準優勝したメンバーの何人かは、第2回大会ではイタリア代表選手として優勝している。ユベントスで活躍してバロンドール受賞者にもなったオマール・シボリを筆頭に、多くのアルゼンチン人がセリエAで活躍した。バティストゥータ、オルテガ、ベロン、アルメイダなど98年のメンバーも多くがセリエAでプレーしていた。
独特の編成と、シメオネが遊軍的に動く面白さがあり、アルゼンチンはベスト8まで進んだが、オランダに敗れた。戦術的にはオーダーメイドの旧式で、当時すでに主流になっていたコンパクトなスタイルからは遅れていたと言える。パサレラのチームには優勝を狙うほどの力はなかった。ただ、すでに次の世代が台頭していた。
ビエルサとバティストゥータ
ユースチームが目覚ましいパフォーマンスを示していた。その功績から、次の代表監督にはホセ・ペケルマンが指名される。ところが、ペケルマンは監督就任を固辞し、代わりに推薦したのがマルセロ・ビエルサだった。
“エル・ロコ”と呼ばれたビエルサは、メノッティとビラルドを足して2で割ったようなスタイルとも言えるが、むしろビエルサ派ともいうべき第3派閥になっていく。
アヤックスの信奉者だったビエルサは独自に分析を重ね、アヤックス風の洗練されたパスワークをものにしている。同時にコンパクトな陣形とマンマークの高強度の守備を組み合わせた。結果として、メノッティの攻撃精神とビラルドの緻密な守備の合体に成功していた。
基本フォーメーションは[3-4-3]。メンバーもパサレラ前監督時代から入れ替わった。しかし、ベロンとサネッティは主力として残っている。オルテガは右ウイングに固定された。ビエルサの新生アルゼンチンは南米予選で圧倒的なパフォーマンスを見せつけ、2002年ワールドカップの優勝候補だった。
サネッティはMFとしてタイトなマークだけでなく攻撃力を兼ね備え、ドリブルで右サイドをグイグイと持ち上がる推進力で不可欠の存在になっている、ベロンのプレーはパサレラ時代と変わらないが、豊富な運動量と展開力で組み立ての中枢を担った。
この時期にはパブロ・アイマール、ファン・ロマン・リケルメが新10番として台頭していたが、ビエルサのファーストチョイスはあくまでベロンである。アイマールはオルテガとポジションを争う形で右ウイングに起用され、リケルメはメンバーから外れた。アイマールとリケルメはベロンを上回る攻撃力があったが、守備面でビエルサの要求水準を満たしていなかった。また、機械のようにプレーするビエルサのサッカーにおいて、アイマールとリケルメは「個」が強過ぎたとも言える。
バティストゥータも先発から外れていた。ビエルサのお気に入りはエルナン・クレスポだ。
クレスポは万能型のストライカーで、ターゲットマンとして前線で壁役として機能し、守備も献身的。ビエルサのスタイルに合っていた。ただ、点を取るということにかけてはバティストゥータの能力も捨てがたく、ワールドカップ直前には「バティかクレスポか」の議論が沸騰することになる。
バティストゥータは純粋な点取り屋だ。強靭な足腰でマークを外し、強烈なシュートを叩き込む。ゴール前の決断力、パワー、得点力ではクレスポを凌駕していた。ただし、ビエルサのスタイルに合っていたかといえば疑問である。本来なら、リケルメを断念したようにバティストゥータも外れるはずだった。バティとリケルメはエゴイストではないが、独自色が強く、誰かのオーダーに従ってプレーするには不向きなのだ。
結局、ビエルサはナイジェリアとの緒戦にバティを先発させ、バティの一発で1-0と勝利。次のイングランド戦でも先発させたが、0-1で敗れてしまう。アルゼンチン、イングランド、スウェーデンの三つ巴となっての最終戦、先発は3試合連続でバティだったが1-1で引き分け。アルゼンチンはグループ3位で敗退する。皮肉にも88分の同点ゴールはバティと交代したクレスポだった。
予選の立役者の1人だったクレスポではなく、調子を上げてきたゴールのカリスマに頼ってしまったのが裏目に出てしまった。緻密に仕上げたチームを部分的に壊してまでバティストゥータの得点力に懸けたのは、それだけワールドカップの圧力が強かったからだろうか。
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決して並外れた身体能力の持ち主というわけではなかったものの、類稀な決定力で幾多のゴールを決めるガブリエル・バティストゥータ、“小さな魔術師”の異名の通り、卓越したスキルとビジョンでピッチを支配するファン・セバスティアン・ベロン、驚異的な運動量とタフネスで攻守に貢献する鉄人ハビエル・サネッティの3選手が、大人気スポーツ育成シミュレーションゲーム「プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド」(サカつくRTW)に登場!
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Photos: Getty Images, Bongarts/Getty Images
Profile
西部 謙司
1962年9月27日、東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、会社員を経て、学研『ストライカー』の編集部勤務。95~98年にフランスのパリに住み、欧州サッカーを取材。02年にフリーランスとなる。『戦術リストランテV サッカーの解釈を変える最先端の戦術用語』(小社刊)が発売中。