指導歴30年超。現場レベルから見たドイツサッカーの4半世紀
ベルリン州サッカー連盟指導者教官・カルステン・マース氏インタビュー_前編
若手選手の育成はもちろんのこと、ブンデス史上最年少監督ユリアン・ナーゲルスマンを筆頭とした若手指導者の育成・抜擢の土壌も確立されているドイツ。彼らはいかにして“若手抜擢”を可能にするシステムを作り上げてきたのか。ベルリン州サッカー連盟でおよそ20年にわたり「指導者の指導」に取り組んできたカルステン・マース氏を取材。ドイツの育成の現在・過去・未来について話を聞いた。
前編ではマース氏自身の経歴を振り返りつつ、彼が連盟と並行して関わってきたアマチュアクラブの例を通してドイツのアマチュアクラブにおける指導者事情に触れてほしい。
16歳でスタートした指導者の道
――マースさん、今日はお時間いただきありがとうございます。まずは、マースさん自身の経歴をお話していただければと思います。1990年から本格的に指導者として活動を始めたというお話ですが。
「正確には1985年からです。私自身まだ16歳と若かったですね。私たちのチームのコーチが素晴らしい人で、お手本のような存在でした。それで、『私も彼のようになりたい』と思うようになり、早い段階で小さな子供たちのコーチとして指導者の道に進みました。そして、『これは自分のやるべき仕事だ』と感じるようになるまで、それほど時間はかかりませんでしたね。18歳で、当時所属していたクラブの育成部門のチーフに抜擢されました。私にとって、自分自身が指導者として働くだけではなく、クラブ内の他の指導者たちが仕事をしやすい環境を整えることも重要なテーマだったのです」
――そんなマースさんに「この人のようになりたい」と思わせるほどのコーチとは凄いですね。その人のどんな部分が特別だったのでしょうか?
「彼は、些細なことでも感激できる能力を備えていました。指導者にとって、この『感激できる力』は重要なファクターです。それに、人としても尊敬できる性格でした。サッカー面もそうですが、人として私のお手本となってくれました。その彼が『子供たちのチームを手伝ってくれないか?』と聞いてきたので、私は喜んで引き受けましたよ。尊敬している人に直接聞かれたのですから、うれしかったですね。今振り返っても、優れた指導者を育てるうえで10代の若い選手たちに早い段階で指導者の道を意識させるのは、ベストなやり方なのではないかと思っています。選手としてのキャリアとは別に、自分たちのクラブに長く残って活躍できる場を提供できることにも繋がりますからね。これは、私たちのクラブ(エンポーア・ベルリン)のコンセプトの一つでもあります」
――そのコーチは、すでに経験豊富な年配の方だったのですか?
「いや、そのコーチも19、20歳ぐらいで私たちと歳は近かったですね。当時にしても、監督としてはかなり若い方でした。今はもう、指導者はしていませんが」
――それから、ドイツ統一後に変化が訪れるわけですが、1990年というのはマースさんにとっても特別な年ですか?
「そうですね、クラブを変えた年ですので。それまではプレンツラウアー・ベルク区の小クラブにいましたが、同じ地区内で旧東ドイツの中でも育成に優れたエンポーア・ベルリンに移籍したのです。今はDFBシュトゥッツプンクト(日本のトレセンに近いもの)と呼ばれていますが、東ドイツでは『トレーニングセンター』と呼ばれていたセレクションに選抜された選手たちは、エンポーアが管理を担当している施設でトレーニングを行っていたのです。そんなエンポーアで、1990年に22歳で加入した当初から監督業の他に育成部門のチーフとしても働き始めたのです」
――本格的なキャリアが始まったと言えますね。
「キャリアというほどのものではありませんが、当時、この地区近郊の育成年代の最も優れた選手たちがこのクラブに集まっていました。私にとってはさらに上のレベルで仕事ができるチャンスでしたから、その機会を活かしたいと考えて移籍を決断しました。よりレベルの高いチームで仕事をできるのは、私にとっても名誉なことでしたからね。
ただ、その2年後に監督として再び移籍することになります。エンポーアでの2年間はU-15を率いて、大きな成功を収めることができました。当時のベルリンで最高レベルのリーグで、ヘルタ・ベルリンやヘルタ・ツェーレンドルフなどベルリン屈指の育成機関を有するチームを相手に良い成績を残せていましたからね。敗戦はヘルタに敗れた2敗だけ。そうして、ヘルタから育成部門の監督として働かないかとオファーをもらったのです」
――当時だと、ニコ・コバチなどもヘルタのアマチュアにいましたね。
「そうですね。1993年にはヘルタのトップチームではなく、アマチュアチームがDFBポカール決勝に出ましたから。ニコ・コバチやカルステン・ラメロウなどがアマチュアチームにいて、まさに“黄金世代”でした。ちょうどそのタイミングで、私は2年間ヘルタの下部組織で働きました。ただ、その時期のヘルタは破産寸前で、育成機関にかけられる資金も尽きていたのです。1994年ですね。当時トップチームは2部にいましたが、観客は多くてもわずか5000人でオリンピア・シュタディオンは空っぽも同然でした。そんな状況でしたから、私だけでなく他の優秀な指導者たちもヘルタから移籍せざるを得なくなったのです。そうして再びエンポーアに戻ったタイミングで、監督および経営陣の一人として社員契約を結んだのです」
明確なコンセプトに基づく街クラブのマネージメント
――26歳にして経営陣に入るというのは凄いですね。
「それが1994年で、育成部門のチーフとしての活動も再開しました。その後1996年にドイツサッカー連盟(DFB)がベルリンのホーエンシェーンハオゼン地区にあるエリートスポーツ学校に資金援助を行う計画が持ち上がり、その学校のサッカー担当の教員として採用されました。それ以来、私はベルリンサッカー連盟の職員として雇用されています。ただ、報酬はDFBから提供されているのです。なので、形式的にはベルリンサッカー連盟の職員で、教員としてスポーツエリート学校に務めている形になります。
その一方で、クラブでの活動もずっと続けてきました。これまでの活動の大半はエンポ-アですが、2000年から2002年には現在レギオナルリーガ(4部)のBFCディナモで活動しました。U-17のレギオナルリーガ東北部(U-17のドイツ2部)で監督と育成部門のコーディネーターを務めたのです。その後、再びエンポ-アに戻りました。コンタクトは常に取り続けていましたからね。そして、戻るタイミングで「新しいコンセプトを実行したい」と提案したのです。私自身、いろいろなクラブを見たり経験を積んだりして、クラブとして最適な発展プロセスをつかめてきていましたから、それを実行したかったのです。そして、これがクラブとしての“再出発”となりました。
例えば、どのチームの担当でも監督の扱いを公平にし、特別扱いはしないようにしました。クラブ内の監督同士もお互いにチームとして協力し合えるような環境を整えることを目指しました。スタッフがクラブ内で“共同体”として生活できるような空間を作りたかったのです。
ドイツにはたくさんのクラブがあって、そこに所属する人々の間で一つの“共同体”が形成されます。しかし、現場レベルでは各指導者が自分の担当するチームだけに集中し、クラブ内での横の繋がりがないクラブが多いのも現状です。当時のエンポーアもそうした傾向があったので、それを変えたのです。まずは指導者間で“共同体”を形成し、ともに活動する感覚を持てるようにしました。それが2003年のことで、そこからクラブも徐々に発展していきました。このコンセプトの核となるのは、『カテゴリーを問わず監督・スタッフを同格に扱うこと』と『その公平性から生じる、互いに協力し合う関係性の構築』です。
ドイツのアマチュアクラブでは、指導者は基本的にボランティアで、そこにいくらかの補償金が渡される程度です。私たちも例外ではなく、それほど大きな予算もないため指導者たちに支給できる金額も多くはありません。加えて、コーチングライセンスを持っていたり学校の体育の先生だったりすれば、サッカー連盟や教員のための組織から配給されるお金が彼らに渡されるようになっています。
この補償金の部分に関して、私たちは“工夫”をしています。A級ライセンスを持っているU-9の監督とB級ライセンスを持っているU-19の監督だったら、U-9の監督の方がより多くの補償金をもらえるようにしているのです」
――たいていのクラブでは、ライセンスの有無や高低にかかわらずU-19など年齢のカテゴリーが上がるほど支給される金額が大きくなるのが一般的ですよね。
「そうです。私たちはカテゴリーではなく、どれだけしっかりと訓練を積んできたのか、勉強に時間やコストをかけてきたのかを評価します。どのライセンスを持っているかどうかは誰が見てもわかるもので、透明性が高いですからね。
これによって、多くのクラブが抱える問題も解消されます。たいていのクラブでは、しっかりと訓練を積みレベルの高いライセンスを持った指導者が、待遇が相対的に良くないU-9やU-11カテゴリーを担当することはありません。しかし、持っているライセンスを基準に評価することで、金額面でのデメリットも解消されます。ですから、私たちのクラブでは若年層のカテゴリーでも常にエリートユーゲントライセンス(ブンデスリーガクラブなどのエリート育成部門NLZで指導できるライセンス)やA級ライセンスを持った指導者が活動しています。
現在エンポーアでは、50人以上のライセンスを持った指導者が活動しています。育成部門は全体で24チーム。それにトップをはじめシニアや女子チームが加わるので、合計で35チーム弱になります」
――チーム数に対して、ライセンス保持者の割合がかなり高いですね。
「そうですね。育成年代に関しては、必ずライセンスを保持している指導者が2人以上で担当するようにしています。それに加えて、まだライセンスを獲得していない指導者たちが活動しています」
――それは各年代のファーストチームやセカンドチームだけではなく、すべてのチームに当てはまるのでしょうか?
「私たちの目標は、できるだけ上のカテゴリーに行くことではありません。目指しているのはできるだけ多くの選手たちに優れたトレーニングを提供し、育成すること。そうして結果的に、現在は大人も含めて育成部門の各カテゴリーでベルリン州最高レベルの『ベルリンリーガ』(男子のトップチームは6部、U-19、U-17では3部、U-15では2部に相当)でプレーしています。それに、U-19は3シーズンにわたってレギオナルリーガ(トップチームの4部、U-19のドイツ2部相当)でプレーしました」
――輩出選手の中には現在、原口元気が所属しているハノーファーのリントン・マイナがいますね。
「そうですね。ただ私たちは、他のクラブから選手を獲得するようなことはしていませんし、こちらから選手にオファーを出すこともありません。やって来た選手を自前で育てるのです。選手を育成し、チームを発展させることに力を注いでいます。このクラブでは、多くの子供はU-7やU-9からサッカーを始めます。その選手たちがずっとクラブに残りシニアリーグまでプレーする。それが私たちのクラブにとっての理想像です。
各カテゴリーでそのつど能力のある選手をよそから獲ってきて、結果を残す方法は取りません。やって来た選手を、性格的にも能力的にもエンポ-アに適しているか見定めたうえで適したチームに振り分けます。こちらから追い返すようなことはしませんね。 また、エンポーアでは基本的に担当しているチームの指導者を2、3年で入れ替えています。ずっと同じ監督の下でプレーするのではなく、監督を交代することで選手たちが新たなインプットを得ながら成長できるようにするのです。もちろん、指導者と選手との繋がりはすごく強いものになります。私自身がそうであったように、お手本のような存在であったりね。逆に、U-9のチームがずっと同じ指導者の下でU-19まで上がっていくというのは、好ましいことではないと考えています」
――最初に話されていたように、これまでプレーしていた選手が指導者として活躍していることもあるのでしょうか?
「すべての選手ではありませんが、毎年3~5人ぐらいに指導者をやってみるよう声をかけます。U-15やU-17の選手たちですね。運が良ければそのうちの1、2人が指導者として活動を続けます。毎年1人、自前の若い指導者が生まれるとすれば、相当な数になりますよね。もちろん年によってバラつきは出ますが、これは私たちのコンセプト“ともに成長を“(Gemeinsam Empor)に合致するものです。クラブの名前であるエンポ-ア(Empor)とは、ドイツ語で発展や上昇を意味します。それにかけて、指導者が協力し合い、そこから選手たちが結びつき、保護者が参加し、スポンサーが加わり、“共同体”としての輪が広がっていくイメージを表しています」
――以前にヘルタと提携されていましたが、それも“ともに成長を”するためのものだったのでしょうか?
「そうですね。長いこと提携関係を結んでいました。ただ、ヘルタは競技レベルでの関係ではなくマーケティングの一環として活動している感覚が強まったため、提携を解消しました。ヘルタは我われが『キーツクラブ』(地元の地区に根づいたクラブ)ということで、ファン獲得のために提携先として選んだのだと思いますが、私たちは競技レベルで発展していくことを目指しているのです。
そのタイミングでウニオン・ベルリンが私たちの下にやって来て、協力関係の構築について話を持ちかけてきました。そして彼らの話を聞き、ウニオンと提携を結ぶことにしたのです。選手育成のコンセプトや指導者の養成などについてやり取りを行っていて、非常に緊密な関係を築けていると思います。実際、現在ウニオンで責任者として活動している中には、エンポーアが輩出したスタッフもいるのです。例えば、スモールフィールド(育成部門のU-13まで)のコーディネート担当やU-19の監督、昨年はU-17の監督もそうでした。長い間このクラブでプレーしていた選手や指導者としての経験を積んだスタッフたちが、ウニオンで働いています。ウニオンでは、それぞれの役職のプロとしてお金を稼げる将来も見込めるようになります。
エンポ-アでは、すべての指導者がボランティアで働いておりサッカーではお金を稼ぐことはできません。ですが、将来的にスポーツの分野や社会・児童福祉の分野、教員などを目指すうえで有益な経験を積むことができます。その中でプロの世界を目指し、ウニオンへの道を切り拓いた指導者たちも出てきているということです」
――ウニオンとの提携はどのぐらいになりますか?
「公式には2015年からですが、実際には6、7年前からですね」
Photos: Tatsuro Suzuki, Bongarts/Getty Images
Profile
鈴木 達朗
宮城県出身、2006年よりドイツ在住。2008年、ベルリンでドイツ文学修士過程中に当時プレーしていたクラブから頼まれてサッカーコーチに。卒業後は縁あってスポーツ取材、記事執筆の世界へ進出。運と周囲の人々のおかげで現在まで活動を続ける。ベルリンを拠点に、ピッチ内外の現場で活動する人間として先行事例になりそうな情報を共有することを心がけている。footballista読者の発想のヒントになれば幸いです。