名優たちの“セカンドライフ”
欧州のトップリーグで輝かしい実績を残した名優たちが、新たな挑戦の場として欧州以外の地域へと旅立つケースが増えている。しかし、そのチャレンジの様子はなかなか伝わってこない。そんな彼らの、新天地での近況にスポットライトを当てる。
※月刊フットボリスタ2020年1・2月号掲載
from PARAGUAY
Joaquín LARRIVEY
ホアキン・ラリベイ
イタリア、メキシコ、スペインのクラブを渡り歩き、近年はアジアに拠点を移してUAEと日本でプレーした後、現在パラグアイの強豪セロ・ポルテーニョに所属するホアキン・ラリベイ。その逞しい体つきから「タンケ」(戦車)と呼ばれる大型ストライカーは昨年8月で35歳となったが、自ら「15年間のキャリアにおいて今まさに最高のコンディションにある」と語るほど、心身ともに絶好調の状態にある。
ジェフ退団が決まった2018年12月、ラリベイの下にセロ・ポルテーニョでプレーするチャンスが訪れた。セロの強化部長を務めるロベルト・ナンニはかつてラリベイとともにベレス・サルスフィルでプレーした仲で、日本から戻って来た旧友がチームに最適と判断したのである。パラグアイを代表する名門であり、今年のコパ・リベルタドーレス出場も決まっていたセロからのオファーは非常に魅力的で、ラリベイは「迷うことなく承諾の返事をした」という。そしてクリスマスの前日となる12月24日にサインをし、正式に入団が決まった。
セロの監督を務めていたフェルナンド・フベロは、それまでに計6カ国9クラブを渡り歩いてきたベテランストライカーの実力を高く評価。その優れた順応性から即戦力として大きな期待を寄せていた。
登録トラブルで1か月半を棒に
だがここで予期せぬトラブルが起きる。保有権に絡む問題で選手登録が不可能となり、試合に出場できない事態となってしまったのだ。プレーできない日々が続き、ラリベイは焦りを感じた。セロには得点を狙うアタッカーとして元パラグアイ代表ネルソン・アエド・バルデス、同じアルゼンチン人のディエゴ・チュリンが在籍しており、レギュラーの座を約束されていたわけではない。「一日も早く試合に出て実力をアピールしたい」という気持ちを抑えながらトレーニングに集中し、調整に励んだ。
FIFAの介入によりようやく出場可能となったのは、契約を交わしてから1カ月半後の2月8日。さっそくリーグ戦のメンバーに入り、2日後には対リーベルプレート戦に出場、デビューするなりゴールを決めてチームの勝利に貢献してみせた。
セロのラウル・サパグ会長から「F1級のストライカー」と絶賛されたラリベイは、その期待に応えるかのように順調にチームに馴染み、4月に行なわれたコパ・リベルタドーレスのGSではブラジルの強豪アトレティコ・ミネイロを相手に好プレーを披露。自らも得点をマークして4-1の快勝の立役者となり、サポーターの心をしっかりとつかんだ。
ただその後、セロは監督を2度交代。10月からアルゼンチン人のビクトル・ベルナイが指揮を執るようになって以降は出場機会が減少し、去る11月24日に行われたオリンピアとのクラシコではベンチに入ることもできなかった。2019後期は11試合5得点にとどまっており、この状況についてパラグアイの著名ジャーナリスト、ガブリエル・カセナベは「セロとの契約はあと1年残っているが、他のクラブを探すのではないか」と見ている。
明るく誠実な人柄でセロのサポーターからも敬愛されるラリベイ。だが、自ら「今がベストコンディション」と語っているだけに、今後さらなる挑戦を求めて新天地を探す可能性は大いにありそうだ。
Joaquín Larrivey
ホアキン・ラリベイ
(セロ・ポルテーニョ→ウニベルシダ・デ・チレ)
1984.8.20(35歳)185cm / 82kg FW ARGENTINA
2004-07 Huracán
2007-09 Cagliari (ITA)
2009 Vélez Sársfield on loan
2009-10 Cagliari (ITA)
2010-11 Colón on loan
2011-12 Cagliari (ITA)
2012-13 Atlante (MEX)
2013-14 Rayo Vallecano (ESP)
2014-15 Celta (ESP)
2015-17 Baniyas (UAE)
2017-18 JEF United Chiba (JPN)
2019 Cerro Porteño (PAR)
2020- Universidad de Chile (CHI)
Photos: Getty Images
Profile
Chizuru de Garcia
1989年からブエノスアイレスに在住。1968年10月31日生まれ。清泉女子大学英語短期課程卒。幼少期から洋画・洋楽を愛し、78年ワールドカップでサッカーに目覚める。大学在学中から南米サッカー関連の情報を寄稿し始めて現在に至る。家族はウルグアイ人の夫と2人の娘。