「デル・ピエーロ・ゾーン」――左ハーフスペースの支配者の玉座
最新戦術用語で読み解くレジェンドの凄み#1
過去から現在に至るまで、サッカーの歴史を作り上げてきたレジェンドたち。観る者の想像を凌駕するプレーで記憶に刻まれる名手の凄みを、日々アップデートされる最新戦術用語であらためて読み解く。
第1回は、イタリアサッカーが連綿と紡いできたファンタジスタの系譜を代表する一人、アレッサンドロ・デル・ピエーロ。代名詞だった左斜め45度、当時は“存在”しなかった「ハーフスペース」からのフィニッシュにスポットライトを当てる。
デル・ピエーロ・ゾーン
ペナルティエリアの横幅を3つに分けた時の左側は、「デル・ピエーロ・ゾーン」と呼ばれていた。現在の5レーン理論なら、単に左のハーフスペースと呼ばれる場所に人名がついていたのだ。
この場所から、右足でファーポストへ巻いていくシュートを彼が得意としていたからだ。もっとも、右利きの選手にとって、この場所からのファーサイドは狙いやすいコースであり、カットインからのシュートとしては定番といっていい。左サイドからカットインしての右足シュートは、サッカーが始まったころからあったと考えられる。左利きの割合は時代や国を問わず、およそ10人に1人だそうだ。つまり、左ウイングの多くは右利きで、1930年代からカットインシュートが十八番という選手は普通にいたわけだ。
ただ、場所に名前がつけられたのはデル・ピエーロぐらいだろう。
彼の後にもファーサイドへ巻いていくシュートを得意とする選手としてはティエリ・アンリがいたし、現在ならコウチーニョやネイマールもいるが、アンリ・ゾーンやネイマール・ゾーンとは呼ばれていない。それだけデル・ピエーロのゴールシーンは印象的で絶対的なイメージがあったわけだ。
デル・ピエーロは右足の内側を使ったキックに特徴があった。少し体を開きながら右方向へ蹴るのが得意で、正確なパスや多くの得点を決めたFKにもその特徴は表れている。デル・ピエーロ・ゾーンからは右上隅を狙ったシュートが多いのだが、GKの守備範囲の外から枠へ収めてくるので防ぎようがない。そんなに強烈なシュートではないが、けっして弱くもない。コースだけを狙ったループではなく、スピードも伴っていた。よく曲がるわりにそんなに回転がかかっていないのは、中心に近いところを蹴っているからだ。ボールのスピードもありながら急激にフックし、ピンポイントで命中させられる。ただ曲げるのではなく、インパクトが強くウエートも乗っている。だからシュートに向いていた。キックの精度に自信があるので、デル・ピエーロはバーの下ぎりぎりをよく狙っていて、自分のキックの性質とGKが届かないコースが完全に手の内に入っている感じだった。
デル・ピエーロ・ゾーンからは、右足でファーポストを狙うコースだけではなく、左側にも入れていた。切り返しての左足シュートも正確。絶対的な形が1つあって、その他のシュートも巧いのだから守備側には防ぐのが困難だ。デル・ピエーロにここで前を向かれたら「負け」に等しかった。
ハーフスペースへの移動
絶対的なデル・ピエーロ・ゾーンがある以上、デル・ピエーロをそこでプレーさせるのがチームとして最上の策になる。ただ、最初からそこにいるのが良いわけでもない。
ユベントスやイタリア代表ではフィリッポ・インザーギと2トップを組むことが多く、「デル・ピッポ」と呼ばれたが、典型的な点取り屋のインザーギと違って、デル・ピエーロはチャンスメイカーを兼ねていた。ポジションは左サイドから中央にかけて。当然、デル・ピエーロ・ゾーンも含まれている。
左ウイングの位置から左のハーフスペースへ。これはハーフスペースへの移動の定番と言える。味方の左サイドバックの敵陣への進出とセットになっていて、敵の右サイドバックが、上がってきた左サイドバックを警戒して動いた瞬間が合図になる。この時に中へ入れば、敵の右サイドバックとセンターバックの中間のポジションへ入れる。そこでパスを受けて1つ中へ入れば、もうそこはデル・ピエーロ・ゾーンだ。
日本代表を率いていたアルベルト・ザッケローニ監督は、香川真司を日本のデル・ピエーロにしようとしていた。トップ下に本田圭佑、左サイドに香川を起用している。ドルトムントで[4-2-3-1]のトップ下として日の出の勢いだった香川からすれば、左サイドは不本意だったろう。ただ、ザッケローニがイメージしていたのはハーフスペースでプレーするデル・ピエーロであり、香川本人にもそういう説明をしていたそうだ。長友佑都、遠藤保仁との関係を作って香川を左のハーフスペースに移動させるのは、やがて日本代表の主要攻撃ルートになっていった。
利き足とサイドが逆になる、いわゆる「逆足ウイング」の効能が発揮されるのは、タッチライン際のプレーよりもハーフスペースである。ルーマニアのゲオルゲ・ハジ、イングランドのクリス・ワドル、バルセロナでプレーする時のロナウジーニョなどが逆足ウイングだった。現在でもソン・フンミン(トッテナム/韓国代表)やエデン・アザール(チェルシー/ベルギー代表)がこのタイプで、左利きのリオネル・メッシは右のハーフスペースを起点にしている。
ロベルト・バッジョとの競合
プロデビューを果たしたパドバでの2シーズンを経て、1993-94シーズンにユベントスへ移籍したデル・ピエーロ 。当時、ユーベには世界最高クラスのアタッカーであるロベルト・バッジョがいた。
セリエBのパドバから来た18歳が、次のシーズンでバッジョに取って代わると予想した人はいなかったと思う。1994-95シーズン、バッジョが負傷したためにレギュラーポジションを得ると、ジャンルカ・ビアッリ、ファブリツィオ・ラバネッリと強力な3トップを組んで9シーズンぶりにスクデットを獲得、コッパ・イタリアも制した。当時、ラニエリ会長はデル・ピエーロを「ピントゥリッキオ」に喩えている。ルネサンス時代の画家の繊細なタッチとデル・ピエーロの才気を重ねたのだが、ピントゥリッキオはラファエロの弟子なのだ。つまり、バッジョがラファエロで、デル・ピエーロは将来バッジョを継ぐべき逸材という位置づけだったわけだ。ところが、デル・ピエーロの活躍によってバッジョはミランへ移籍することになり、ユーベの10番はデル・ピエーロへ引き継がれた。
イタリアきってのファンタジスタ、ロベルト・バッジョはここからしばらく苦難の道を歩み、対照的にデル・ピエーロはユーベとともに栄光を築いていく。イタリア代表でも名実ともにデル・ピエーロがエースになるのだが、98年に今度はデル・ピエーロが膝を負傷してしまう。ボローニャで復活を遂げたバッジョへの期待が高まると、バッジョがデル・ピエーロを脅かす番になった。よく似たタイプの2人は共存が難しく、その時の状況によってデル・ピエーロとバッジョは光になり影になっている。
負傷してからのデル・ピエーロはベストの状態に戻るまでに数年を要した。ただ、その間にもクリスティアン・ビエリ、ダビド・トレゼゲ、ジネディーヌ・ジダン、パベル・ネドベドなど、個性の異なるチームメートとうまく共存できていた。クラブのバンディエラ(旗手=看板選手の意味)であり、プレーの多様性とともに、そのリーダーシップによって欠かせない存在になっていたのだ。セリエBに降格した時にも移籍を断り、1シーズンでの昇格に貢献している。2006年ドイツワールドカップでは優勝メンバーとして名を連ねた。この時は主力ではなかったが、マルチェロ・リッピ監督にとって、そのパーソナリティからイタリア代表に欠かせない選手だったのだろう。フィールド上で自分のゾーンを確立したデル・ピエーロは、ユベントスとイタリア代表というエリート集団の中でも自分の居場所を確立していた。
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豊かなイマジネーションとそれを具現化するスキルで数々の美しいゴールを生み出してきたファンタジスタの顔と、どんな苦境にも屈しない強靭なメンタリティでチームを牽引するバンディエラの顔を持ち合わせ、今なおファンの語り草となっているアレッサンドロ・デル・ピエーロ。偉大なるレジェンドが、リリース1周年キャンペーンを展開中の大人気スポーツ育成シミュレーションゲーム「プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド」(サカつくRTW)に登場する。
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Photos: Getty Images
Profile
西部 謙司
1962年9月27日、東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、会社員を経て、学研『ストライカー』の編集部勤務。95~98年にフランスのパリに住み、欧州サッカーを取材。02年にフリーランスとなる。『戦術リストランテV サッカーの解釈を変える最先端の戦術用語』(小社刊)が発売中。