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佐々木翔、左SBで日本代表に挑む。ストッパーで育った男の2018年

2018.10.26

日本代表プレーヤーフォーカス#1


森保一監督の下、3連勝を飾った日本代表。チームとしては順調なスタートを切った中、選手たちは新体制での居場所をつかむべく必死に戦っている。ロシアでの経験を糧にさらなる飛躍を期す者から、新たに代表に名を連ねチャンスをうかがう者まで。プレーヤーたちのストーリーやパフォーマンスにスポットライトを当てる。


完璧なパフォーマンスで2015年優勝の立役者に

 ミハイロ・ペトロヴィッチが表現したかったサッカーは、2008年のJ2で一つの完成形を見た。チームはもちろん、広島である。

 それは、1990年代にミランが確立したプレッシングスタイルに対するアンチテーゼだ。CBに技術者をそろえ、ボランチを交えて徹底してポゼッションを連続させる。相手のプレスに対してバックパスを恐れずにボールを動かし、GKを交えて繋ぎ続けた。そして相手がボールを奪いにプレッシャーをかけてきたところで、攻撃のスイッチを入れる。プレッシングは攻撃的な守備。だからこそ、裏にはスペースがある。最前線には5人を配置し、スイッチが入ったその瞬間に動き出して、裏をとる。ボールを後ろで動かし続けることで疑似カウンター状態を作り出して、決定機を量産する。

 このやり方は最終ラインに槙野智章・ストヤノフ・森脇良太とボール扱いに長じた攻撃力のある選手をそろえ、森崎和幸という稀代のバランサーがいたことで成立させた。2008年にもし日本で最もパスが出せるGKである西川周作がいたら、広島のボール支配はさらに凄みを増しただろう。

 森保一が監督に就任した後、広島は守備を修正し、ストッパーの攻撃参加をある程度自重させた。ペトロヴィッチ時代はミキッチや服部公太を追い越して森脇や槙野が相手のペナルティエリア内まで侵入していたが、さすがにそれでは守備が厳しくなる。ただ、森保監督も塩谷司というタレントを得て、彼の攻撃参加を一つのオプションと化した。相手に引かれ、スペースがない時でも、強烈なシュート力とドリブルの迫力を持つ塩谷の存在によって打開し、3度のリーグ優勝の力と為した。

 ただ、塩谷は水戸時代から広島での彼のようなスタイルだったわけではない。稀に見るフィジカル能力の高さは当然のように評価されてはいたし、攻撃の能力も持っていることもわかっていたが、まるでFWのようなゴール前での能力やアタッカーのような突破能力は、まぎれもなく広島のスタイルで、森保監督によって開発されたものだ。

 佐々木翔を甲府から獲得した2015年当時、広島は水本裕貴・千葉和彦、そして塩谷の3人が鉄板のように最終ラインに君臨していた。甲府でも城福浩監督(当時)の下で左ストッパーとして能力を開発されてはいたが、佐々木がそこに割って入るのは難しいと思われていた。当時、彼は26歳。塩谷の一歳下だ。バックアップとしての採用だったのか。だがそうではないことを佐々木はその年の末、優勝争いのど真ん中で証明する。

 11月7日の対G大阪戦で、そこまで水も漏らさぬ鉄壁の守備を誇っていた水本裕貴が接触プレーで負傷。眼窩底骨折の重傷を負った。スコアはこの時、1-0。この時、セカンドステージの優勝争いは首位・広島と2位・鹿島との勝点差が3ポイントで、残りがこの試合を含めて2試合ということを考えてもまったく予断を許さない状態。もし勝点を落とせば年間1位も危うくなる。チャンピオンシップを考えても、勝利が絶対条件だった。

 そこで登場した佐々木翔の完璧な守備。特にかつて甲府で共に戦ってきたパトリックに対してハードな守備を仕掛け続け、苛立った重戦車がセルフコントロールを失って退場するという状況まで作り上げた。さらにG大阪とのチャンピオンシップ決勝の初戦、90分に同点ゴールを決めきって優勝に大きく貢献。FIFAクラブワールドカップでも世界の強豪相手にまったく腰の引かないプレーを見せ付けて3位入賞の立役者となった。

2015年のクラブワールドカップで、オークランド・シティの選手と競り合う佐々木


塩谷司を彷彿とさせた、高い攻撃能力

 2016年、彼は開幕からポジションを獲得する。それはもちろん守備能力の高さを評価されたのだが、一方で塩谷のような攻撃能力に森保監督が魅力を感じていたからだ。3月20日、対大宮戦。試合終了間際に佐々木は接触プレーで右膝前十字じん帯を断裂。そこから2年間、彼はサッカーをやることができなかった。そこからの見事な復活劇はよく知られていることなので、ここでは触れない。

 ただ、ここで重要なのは、この負傷した時のプレーは佐々木が相手のパスを見事な判断でインターセプト。そのままボールを前に運ぼうとした攻撃的なプレーでの「事故」だったということだ。右に塩谷、左の佐々木。ペトロヴィッチ時代のような両ストッパーによる攻撃によって新しいオプションを開発しようとした指揮官の目論見は、アクシデントによって潰えた。だがその2年後、見事な復活を果たしただけでなく、左サイドバックとして日本代表に選出されるとはさすがに想像もできなかった。

 アマチュア時代にSBを経験してはいたが、プロでは今季が初めて。城福監督によってコンバートされた当初、慣れないプレービジョンに戸惑いは隠せなかった。PKを4度も与えてしまったのも、2年ものブランクに加え、新しいポジションへの対応に時間を要したこともある。いいタイミングで左サイドを駆け上がっても、サイドMFの柏好文からのパスをもらえないこともたびたび。だが、それでも佐々木は前を向いた。

 「PKをとられることに対しては、非常に気を付けてはいますが、だからといって腰を引くような守備をつもりはありません。たとえば、自分としては身体をつけただけと思っていても(レフェリーからは)ファウルと見られてしまう場面もある。でも、そういうチョイスをしてしまった自分自身に責任があると思っていますからね。だったら、もっとしっかりと場面を見極めて、適切に判断すること。相手に触らなくても、余裕をもって守備できるようにすればいい。

 攻撃のところでも、カシ(柏)くんのような特別な能力をもっている選手が前にいるわけで、もっとチームとしてカシくんを見るべきだと思っています。ただ、僕が闇雲に高い位置をとって攻撃に出るのが正解なのか。最近はもっと攻撃に比重をかけるべきかなとは思いますが、要はバランスなんです」


「(中島に)仕掛けてダメだった時の選択肢を与えてあげたい」

 ストッパーで育ってきた選手らしいバランス感覚こそ、森保監督が佐々木を評価しているポイント。中島翔哉や堂安律のような元気印のサイドMFを思う存分活かすために、SBは守備のバランスをとれる人材を配置する。佐々木は広島でも柏好文を活かすためのポジションどりやプレー選択をやっているわけで、そういう意味では適材。中島のハイパーブレイクはコスタリカ戦からスタートしているが、それは佐々木の目に見えづらいサポートがあったことは言うまでもない。

 「そこは佐々木くんとはずっと、話していたところ」とコスタリカ戦後のミックスゾーンで槙野智章が語っていたが、佐々木も同調する。

 「槙野くんは身体能力も高いし、守備範囲も広い。なので僕が出る部分、槙野くんに任せていいところも含め、練習の時から話をしていました。中島選手はやりたいことをやりたいタイプ。ボールを持ったらほぼ仕掛けるし、SBとのコンビネーションというよりは自分で何かをしたがる。だから、そういうチョイスをやりやすいように、仕掛けてダメだった時の選択肢を(中島に)与えてあげたいなと思っています」

 日本代表は常に勝負の場であり、佐々木翔がこれからもチョイスされるためには、クラブでも代表でも結果を出し続ける必要がある。ただ、今の彼はとにかく、サッカーができる喜びとピッチに立ち続ける難しさ、その両方を感じながら毎日のトレーニングと試合に全力で立ち向かっている。日本代表での競争はもちろん、「ウチのチームにもいいSBはいる。だからケガや累積警告などで試合に出られないのはイヤなんです」。

 厳しい競争の中、一瞬も気が抜けない。そういう言葉を口にしながら、佐々木は楽しそうに笑った。競争の現場にいる幸せ。そこにすら参加できなかったことがあるからこそ、佐々木翔は今の状況を、全力で楽しんでいる。


Photos: Getty Images
Edition: Daisuke Sawayama

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サンフレッチェ広島佐々木翔日本代表

Profile

中野 和也

1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。

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