アルゼンチン人監督の謎解きの旅。ビエルサに魅せられて監督学校へ
芸術としてのアルゼンチン監督論 Vol.1
2018年早々、一人の日本人の若者がクラウドファンディングで資金を募り、アルゼンチンへと渡った。“科学”と“芸術”がせめぎ合うサッカー大国で監督論を学び、日本サッカーに挑戦状を叩きつける――河内一馬、異国でのドキュメンタリー。
「良いプロセスを踏まずに結果だけを評価されるのであれば、それは非常に悪いことである」と、マルセロ・ビエルサは言った。頭の中にある膨大な数の言葉を選び取るように、ゆっくりと、ゆっくりと話をするその姿は、彼の「生き方」そのものを示しているようにも見える。私は、監督としてピッチに立つまでの「良いプロセス」を、彼が生まれ育った地、アルゼンチンで歩み始めることにした。ここに記す記録は、私という人間が、監督として生きていくための「プロセス」を記した、唯一無二の物語である。
2018年2月下旬/ラ・プラタ
アルゼンチン・ブエノスアイレス州の郊外「La Plata(ラ・プラタ)」という町に着いてから、早くも2週間ほどが経過した。住む予定の家を見つけることができず彷徨うこと数十分、見知らぬメキシコ人に助けてもらうところから始まったここでの生活は、想像通り、私のあらゆる価値観を破壊し続けている。ここに来るまでの約25年、無意識のうちに形成されていた「私の生き方」が、地球の裏側では意味を持たなくなり、しかしそれこそが、「私のサッカー」という得体の知れない何かに、変化をもたらすことになると気付くのは、もう少し先のことである。
ここに説明するまでもなく、アルゼンチンといえば世界有数のサッカー大国で、選手はもちろん、アルゼンチン人「監督」は、これまで多くの偉業を成し遂げてきた。先に記したマルセロ・ビエルサは、「El loco(変人)」と呼ばれるほどにサッカーを溺愛し、研究し、そしてまた表現をしてきたことで知られている。彼の「プロセス」を、いったいどれだけの人々が賞賛していることだろう。世界中の代表チーム、またはクラブでアルゼンチン人監督が指揮を執っているのを見ると、1つの疑問を持たずにはいられない。
“なぜ、アルゼンチンという国は、優秀な監督、つまりリーダーが多いのだろうか……?”
長い廊下を抜けると、机が2つあるだけの質素な事務室がある。初日、いきなり“日本人”を発揮した私は、指定された時間の15分前に到着した。他に受講者は誰も居ない。部屋に置かれたボードには、私が通う監督養成学校の名前と、「ファン・ラモン・ベロン」の文字が記されている。「ベロン」と聞いて、頭に「?」が浮かぶ人は、サッカーを意図的に人生から遠ざけてきた人か、もしくは私より若い世代か、そのどちらかだろうか。この学校の校長は、マンチェスター・ユナイテッドやラツィオ、インテルで活躍した「ファン・セバスティアン・ベロン」の、その実の父である。この町にある「Club Estudiantes de La Plata」というクラブは、現在ベロン(息子)が会長を務めており、ベロン(父)も過去にクラブで活躍したレジェンドである。2009年、FIFAクラブワールドカップ決勝で、ペップ・グアルディオラ率いるバルセロナを最後の最後まで苦しめたチームとして、記憶に残っている人も多いのではないだろうか。ベロン(父)は、アルゼンチン指導者協会名誉会長でありながら、偉大なストーリーを感じさせない、気さくなおじいさんだった。
“アウェイ”に乗り込んだ私は、緊張で全身に汗をかきながら、拙いスペイン語で挨拶を交わしていた。「サッカーを学ぶためだけに日本から来るなんて、すごいことだよ!」と、私を抱きしめながら言った年配の講師は、いつも日本サッカーにリスペクトの意を示してくれる。「今日は日本からたくさん学んだぞ」と、ベルギー戦の後、失意に溺れる私にうれしそうに話をしてくれた。受講者の中には、歳下の指導者(今では一番の親友だ)が一人、同い歳のサッカー選手が一人、それ以外は全員歳上で、それぞれ様々なバックボーンを持っている。顔を合わせた講師、そして授業を共にする受講者たちは、一人アウェイから乗り込んだ日本人を、温かく歓迎してくれた。
そうこうしている間に、目の前では多くの学校関係者がスピーチをしていき、最後にはベロン校長が照れくさそうに大きな拍手を浴びている。スペイン語が拙い私でも、彼らが持つ「サッカーへの愛」や、この国が歩んできたサッカーの「深い歴史」を感じさせる瞬間だった。これから私は、彼らから何を学び、何を感じ、そして何を伝えることができるのだろうか。
“なぜ、アルゼンチンという国は、優秀な監督、つまりリーダーが多いのだろうか……?”
正直、この問いに対して、何か「1つ」の答えを出せるとは思っていない。ただ、私は監督という生き方をしていくにあたって、それらを自ら探る必要があると、なんとなく、でも確実に思っている。探り、探り、探ることで、私はこのアルゼンチンという地から、そして人々から、サッカーにおいて、監督という仕事において、何か大切なことを学ぶことができると確信している。
この連載の中で、その「鍵」となるキーワードをいくつか上げていき、一つひとつを紐解いていくことで、日本人監督(リーダー)の発展に貢献できれば、何よりの喜びである。
私は監督としてピッチに立つまでの「良いプロセス」を、アルゼンチンで歩み始めることにした。
芸術としてのアルゼンチン監督論
- 【Vol.1】アルゼンチン人監督の謎解きの旅。ビエルサに魅せられて監督学校へ
- 【Vol.2】「サッカーで年は関係ない」の意味。アルゼンチン指導者を育む議論文化
- 【Vol.3】アルゼンチンの「カオス」に学べ。異なるバックボーンが何かを生む
- 【Vol.4】サッカー監督に求められるのは「対話」ではなく「演説」の力
- 【Vol.5】アルゼンチンの監督学校で習った伝える力――教授法の3つの要素
- 【Vol.6】揺れる伝統国、アルゼンチンの育成論。サッカーの天才は「作れる」のか?
- 【Vol.7】ポチェッティーノは慌てない。「臨機応変に対応する力」の源泉
- 【Vol.8】サッカーをする子供たちの目的は? 哲学するアルゼンチンの指導者たち
- 【Vol.9】現役監督G.ミリートの講義で思う「サッカー監督=ツアーガイド」説
- 【Vol.10】ここがヘンだよ、アルゼンチン人。“外国人の視点”で弱点を探る
- 【Vol.11】「変人」ビエルサこそ一つの理想。サッカー監督の「二面性」を考える
- 【Vol.12】アルゼンチンに来た若者が感じた優秀なサッカー監督を生む理由
Photos: Getty Images
Profile
河内 一馬
1992年生まれ、東京都出身。18歳で選手としてのキャリアを終えたのち指導者の道へ。国内でのコーチ経験を経て、23歳の時にアジアとヨーロッパ約15カ国を回りサッカーを視察。その後25歳でアルゼンチンに渡り、現地の監督養成学校に3年間在学、CONMEBOL PRO(南米サッカー連盟最高位)ライセンスを取得。帰国後は鎌倉インターナショナルFCの監督に就任し、同クラブではブランディング責任者も務めている。その他、執筆やNPO法人 love.fútbol Japanで理事を務めるなど、サッカーを軸に多岐にわたる活動を行っている。著書に『競争闘争理論 サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか』。鍼灸師国家資格保持。