城福浩の時計は、2016年7月23日で止まっていた
【短期集中連載】広島を蘇らせる、城福浩のインテンシティ 第一回
2018年8月5日の第20節終了時点で、J1首位を走るサンフレッチェ広島。W杯中断期間までの15試合で積み上げた勝ち点は実に37、2位FC東京との差を一時は勝ち点9にまでした。再開後はやや苦戦が続くが、安定した最終ラインをベースにJ1で最も堅固な守備は健在だ。
その姿は、昨年のJ1で残留争いを辛くも生き残ったチームとは思えない。この変貌ぶりは、城福浩新監督の手腕を抜きにして語れない。そこで「広島を蘇らせる、城福浩のインテンシティ」と題し、現在の広島を牽引する人物たちに話を聞いた。
第一回は、広島の生き字引であるライター・中野和也氏(紫熊倶楽部編集長)による、城福浩のルポルタージュの前編をお送りする。
天空の青と、深海の蒼
城福浩の人生を刻む時計は、2016年7月23日で止まっていた。
この日、彼はFC東京の監督として多摩川クラシコを闘った。場所は等々力陸上競技場。圧倒的な攻撃力を誇るライバル・川崎フロンターレにシュートの雨を降らせられながらも耐えていたFC東京だったが、81分、小林悠のヘディングシュートによって守備が決壊。シーズン初の3連敗を喫した後、城福はクラブから監督解任を通告された。解任発表は翌日。その日から、彼の時計の針はピタリと止まった。
24日、選手たちの前で彼は「感謝」の言葉を口にした。サポーターに対しても想いは同様。自分の仕事に対して、言い訳をするつもりはなかった。後に彼は、当時のFC東京での日々について、こう語っている。
「その場にいた自分にしか見えない景色が、そこにあった。その状況を自分自身が楽しめていたか。日々のトレーニングを選手たちと一緒に楽しめていたか。その自問に対して、僕はそうではなかったと言うしかない。選手も頑張ってくれていたし、サポーターには本当に支えてもらった。苦戦の要因は、自分自身にあったんです」
この言葉は本音である。だが一方で、志半ばで倒れてしまったことへの悔しさもまた、消え去ることはできない。焚き火の後に残る熾火(おきび)のような、静かだけど消えない火の存在を、否定することはできなかった。
「現場で答えを出したい。このままでは死ねない」
解任後、日本サッカー協会での仕事をしている時も、内面にある静かな闘志を抑えることはできなかった。2017年秋、広島の足立修強化部長から熱意あるオファーを受けた時、その闘志に火がつき始めたことを感じた。「現場に戻るんだ」。決意を固めた。止まっていた時計の針は、ここからまた、人生の時を刻み始めた。
12月22日、監督就任記者会見。筆者はこんな質問を新監督にぶつけた。
「FC東京ではカップ戦のタイトルを取り、リーグ戦で上位を争った経験もあります。甲府でもJ1昇格、そして残留の実績を残されました。一方で、非常に苦しく厳しい時期もあった。その監督生活の中で、ご自身の学びとなったことは、なんでしょうか」
当時、広島のサポーターの間に流れていたのは、城福監督就任を手放しで喜ぶ空気ではなかった。4年で3度の優勝という黄金時代から一気に奈落までたたき落とされた2017年の屈辱。わずか1ポイント差での残留という結果に対して、フロントへの不信感は増していた。城福監督の実績に対しても、FC東京の監督を解任されたというマイナスイメージが印象的過ぎて、甲府やU-17日本代表での実績やFC東京でのタイトル獲得などのポジティブな要素は忘れられていた。
だからこそ、城福浩というサッカー指導者が、今までの自分の監督としての実績に対して、プラスもマイナスも含めてどういう自己評価をしているかを聞きたかった。それこそ、広島での仕事に対するベーシックとなると考えたからだ。
「いい時も苦しい時もありました。自分にしか見えない景色もありました。それはもしかしたら天空の青だったかもしれないし、深海の蒼だったかもしれない。なぜ天空の青が見えたのか。なぜ深海の蒼だったのか。それは自分で分析もしていますし、自分の経験値にもなっています。自分自身の信念と照らし合わせつつ、経験をすべてこのチームにぶつけたい」
天空の青と深海の蒼。それは、どういう意味なのか。なぜ、こういう言葉を使ったのか。
いずれにしても、サッカーの指導者でこういう詩的な表現を使った男を、23年間のサッカーライター生活の中では、他には2人しか知らない。1人は、ミハイロ・ペトロヴィッチ。もう1人は、イビチャ・オシム。説明する必要もない人物である。
城福浩とは、どういう男なのか。
サンフレッチェ広島の新監督だという事実以上の知的好奇心が、自分自身に湧いてきた。
「城福浩を、男にしたい」
時計の針を、少し戻そう。
彼が広島からオファーを受け、就任の決意を固めたのは2017年、秋が深まった時期のことだ。ただその時、広島は大きな問題を抱えていた。森保一元監督が指揮を執る東京五輪代表チームに、横内昭展ヘッドコーチと下田崇GKコーチ、そして松本良一フィジカルコーチが招集されることが決まっていたのだ。ヘッドコーチには中村伸コーチを昇格させ、育成組織での指導経験が豊富な加藤寿一GKコーチをトップチームに異動させるなど、広島は内部で対応しようとしていた。しかし、専門職であるフィジカルコーチはいない。前任者の松本コーチは4年で3度の優勝を支えた実力者であり、アイディア豊富な指導ぶりは選手たちの信頼も勝ち得ていた。その後任は、並大抵では務まらない。
足立部長から相談を受けた時、城福新監督の頭の中には一人の男の名前が存在した。池田誠剛。早稲田大学時代の同期であり、フィジカルコーチとして優れた実績を上げ続けていることも当然、彼は知っていた。彼が韓国五輪代表のフィジカルコーチを務めていた時、本大会前の調整に困っていたパク・チュヨン(当時アーセナル・現FCソウル)やク・ジャチョル(アウグスブルク)を甲府が受け入れてトレーニングに参加させていたのも、城福浩と池田誠剛、2人の人間関係が存在したからだ。
「でも、誠剛に対してすぐにオファーを出してほしいとクラブに要請しようとは思わなかった。それは彼がFC今治と契約中であるという事情もあったんですが」
城福浩と池田誠剛は友人ではあったが、ずっと一緒に仕事をしていたわけではない。大学以来の仲間ではあったし、互いの能力や人柄もわかっていた。だが、一緒に仕事をしたのは2016年のFC東京が初めてだったのだ。
ただその時の2人はもう、可能性だけを信じて走っていた若者ではなかった。城福浩はU-17日本代表、FC東京、甲府とそれぞれのチームで明確な結果を出し、池田誠剛もまた横浜F・マリノスや韓国五輪代表などで素晴らしい実績を残しただけでなく、ブラジル代表に帯同してW杯を経験したこともある。
そんな2人に対する遠慮のようなものがあったのか、FC東京では監督とフィジカルコーチが突出した存在になってしまった。スタッフミーティングでも、2人の議論に誰も口を挟めない。そういう雰囲気の中で、池田コーチも含めたスタッフたちの力を存分に引き出せたのかどうか。解任された後の毎日、深海の蒼を見つめながら城福浩はずっと自問自答を繰り返した。
「彼はエクセレントなフィジカルコーチであり、指導力も実績も申し分ない。しかし、自分との相性はどうなのか。他のスタッフとの関係性をどう構築すればいいのか。その問題を自分自身が解決しないと、一緒に仕事をするのは難しい」
12月の東京、20時のファミリーレストラン。そこで城福監督は池田コーチと会った。
「俺は1年半前のあの時から、時計の針は止まっている。だからこそ、次は絶対に失敗はできない。それはわかっているよな、お互いに」
想いを、ぶつけた。
2016年7月23日、多摩川クラシコ敗戦後に解任された城福浩。その事実を知り、辞意をクラブに伝えた池田誠剛。志を共にして戦い、そして膝を屈した悔しさは、2人にしかわからない事実である。だからこそ、失敗ができない戦いの前に、クリアにしておくべき事柄が存在した。池田誠剛という優れたフィジカルコーチのタスクを整理し、ヘッドコーチではないんだという認識を共有する必要があった。そのことを、池田コーチ自身にも理解してもらわねばならなかったのだ。
「こういう形でできるのであれば、一緒にやりたい。無理であればできない」
池田誠剛は、受け入れた。
「城福浩という優れた監督を、このままにしてはおけない。男にしたい」
友情だけでなく指導者として、池田は城福を認めていた。だからこそ彼は親友の言葉を受け入れ、FC今治の岡田武史社長に申し入れて広島移籍を了承してもらった。この人事こそ、どん底に沈んだ広島を引き揚げた大きな要因の一つだと言っていい。
「診察」の第一歩で、城福浩は驚いた
1月15日、広島は合同自主トレーニングを開始する。この時、新指揮官はまず主力選手たちとの面談を行った。自主トレの舞台となった広島県青少年文化センターで2日間、実績豊富でチームに影響を与えることのできる6人の選手たち(3人ずつ)からまず去年のこと、自分たちの現状、新シーズンに向かってどうするべきかを語ってもらった。組織マネジメントの第一歩は、組織の現状を知ることだ。ドクターの診察が患者のヒアリングからスタートするのと同じである。
その「診察」の第一歩で、城福浩は驚いた。
「結局、僕はこのシーズン、試合に出られるのでしょうか」
面談中の彼らからは一度も、そういう空気が感じられなかったのだ。自分よりもまず、チームのこと。そんな雰囲気が場を支配していたのである。
「広島は2012年から4年で3度も優勝した、成功したチームですよね。だからこそもう一度、過去の黄金時代に戻りたい。力があるのに、こうなってしまった。何とかしてほしい。そんな発想になりがちなんですよ。
彼らは違った。過去に戻るのではなく、前に進みたい。でも、そこに存在する霧の晴らし方がわからない。苦しみの質は、そこだったんです。僕にとっては大きな驚きでした。もしかしたら、最大級のポジティブな要素だったかもしれません」
城福監督はまず選手たちに想いを吐き出させ、その上で昨年の映像を見せた。昨年の34試合からポジティブ、そしてネガティブな部分も含め80~100シーンくらいを抜き出し、そこからさらに10シーンくらいを絞り込む。御簾納将分析コーチにとって最初の仕事となったこの映像を選手たちに呈示し、指揮官は自身の想いを告げた。約10分の面談の中で、選手たちは新シーズンに向けて光明を見い出せたのではないか。そんな手ごたえを監督は感じたという。
「例えば青山敏弘は、想いが素直に出てくる。その彼が面談の後、“やれる気がしてきました”と明るい表情で語っていたんです。ということは、それまでは“やれる”という気持ちを持てなかったということなんですよね」
選手たちの意識は高い。そしてもう一つ、新指揮官をポジティブな意味で驚かせたのは、広島というクラブの伝統だった。
「これまで様々なクラブで仕事をしてきましたが、そのすべてにおいて状況が違う。ケースファイルを取り出して、“これは5番の案件だな”と当てはめることはできない。すべてが未踏の地なんです。ただ広島というクラブは、サッカーに集中して取り組める環境を作ってくれている。広島の人々はそれを当然のこととして受け止めているけれど、決して“当たり前”ではないんです。このクラブの伝統・歴史が醸し出してくれるものであり、僕はそういう場所で仕事ができる幸福を感じています」
5週しかないプレシーズン、冷蔵庫と同じ気温
決して大型補強を断行したわけではない。予算も限られている。しかし城福監督は、手ごたえを感じながらチーム作りに取り組み始めた。ただ、そこで大きな課題として立ちはだかったのは、プレシーズンの期間。トレーニング開始は1月22日で、2月24日の開幕に向けて5週間しかない。
通常、プレシーズンの準備には6週間が必要とされているが、広島はヤン・ヨンソン前監督が決めたこの日程で予定を組んでおり、再構築は難しい状況にあった。キャンプ地を押さえるのは通常、前年の夏くらいから動き出さないと、グラウンドや宿泊施設などを確保できない。それでも広島でのトレーニングを早めれば6週間を確保できる可能性もある。しかし、サンフレッチェ広島のトレーニング場である吉田サッカー公園の1月は、常に雪との戦い。豪雪が降れば、雪かきは間に合わない。
城福監督は決まっていた日程を受け入れ、短い時間の中で最大限の効果を発揮するべくメニューを組んだ。過去、広島の選手たちがろくにオフも取れない状況でシーズンを迎えていた歴史を振り返り、オフをしっかりと与えることが重要だという意識もあった。
ところが、現実は思惑を超えた状況でやってくる。歴史的といっていい寒波が西日本を襲い、広島市内ですら最高気温が零度前後という寒さ。吉田サッカー公園は豪雪で埋まり、とても練習できない。急遽、トレーニング場をコカコーラウエスト広島スタジアムに変更したが、ここは広島の陸上競技選手たちにとっては重要な施設。サンフレッチェだけが独占使用できる環境にはない。2部練習もできず、治療施設やジム施設もない中で、やれる練習は限られていた。
「なにしろ外は冷蔵庫と同じ状況でしたから、自分が選手たちに伝えたいことを伝えるというよりも、(運動の)テンポを上げて身体を壊さないように留意することで精一杯。ミーティングの場所もないですしね。1月27日からタイキャンプがあって、暑熱馴化に3日くらいは取られる。だからこそ、広島での5日間でやれることをやっておきたいと思っていたのですが、本当にあの寒さには参りました。すべてのことが後ろにズレてしまいましたからね」
当然、開幕の日程はずらせない。城福監督とすれば戦術の深化を少しでもやりたい。一方、池田コーチとすればフィジカル強化に時間がほしい。最終決定権は監督にあるが、フィジカルコーチの切実さもわかる。
「エネルギーをどこに割けばいいか、どこまでやらせることができるのか。フィジカル強化の観点に立てば、走りだけでなくお尻の筋力強化や体幹、コーディネーションにも時間を取りたい。一方で、戦術を少しでも落とし込みたいし、選手たちの疲労も考慮しないといけない。そんなギリギリのせめぎ合いの中で、誠剛とはバチバチの議論を戦わせました。周りが唖然としてしまうくらいに(笑)」
池田コーチは「(フィジカルを作り上げるまでに)時間がどうしても1週間、足りない」と判断した。その認識は指揮官も同じ。結論として、開幕の札幌戦を過ぎても、プレシーズンのようなフィジカルトレーニングを課すことに決めた。ただ、札幌戦は肉体的にも戦術的にも未完成のまま戦わないといけない。その後、浦和や鹿島とアウェイで戦うことを考えても、必勝の構えが必要だった。負けが込んで残留争いに巻き込まれてしまっては、やりたいこともやりにくくなる。
しかし、プレシーズンのトレーニングマッチの結果は順調とは言いがたい。タイで闘った対ポートFC戦では2-5と大敗。続くパタヤ・ユナイテッド戦は1-2と逆転負け。ムアントン戦には1-0と勝利したものの、宮崎キャンプでの主力組の戦績は0-1(仙台)、1-0(岡山)。勝利した岡山戦も「微妙なオフサイドの判定に救われた」(城福監督)試合だった。山口とのプレシーズンマッチこそ2-0で勝利したとはいえ、内容的には低調。とても「手応えアリ」とはいえない。
「ただ、プレシーズンの試合と公式戦の結果がリンクしないことは、経験則でわかっていました。ここで見ないといけないのは、チームとして何ができていて何ができていないのか。守備の穴を見逃してはいけないし、全体の針の振れ(バランス)がどうなっているのか、コンディションはどうか。うまくいかなかったからこそ、見えてくるものもある。目指している高いレベルのベーシックを、しっかりと意識付けしないといけない」
そんな中で、一つの出来事が起きた。
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【短期集中連載】広島を蘇らせる、城福浩のインテンシティ
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第二回:城福浩が語る、選手育成。「ポジションを奪うプロセスこそ、成長」(後編) …8/8
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Photos: SIGMACLUB, Takahiro Fujii
Edition: Daisuke Sawayama
Profile
中野 和也
1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。