なぜフランス代表を捨てるのか? 精神的な拠り所がルーツになる
フローラン・ダバディ氏に聞く、移民選手のアイデンティティ 後編
メスト・エジルのドイツ代表引退騒動に象徴されるように、サッカー界と移民選手の向き合い方がクローズアップされている。ロシアW杯を制したフランス代表も移民問題を抱えながら歩み続けてきたチームだ。しかも近年、フランスに生まれたアフリカ系のトップ選手が祖国の代表チームを選ぶケースも出てきている。ジャーナリストのフローラン・ダバディ氏にフランスの移民社会について話を聞いた。
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移民選手と若者のアイデンティティ
── では、これまでうかがった社会的な背景と育成・選考面での背景を踏まえて、選ばれる選手側の論理についてダバディさんはどう感じますか?
「純粋にキャリア的な旨味を考えてということももちろんあると思います。フランス代表のレベルにない選手が祖国の代表を選ぶことで『代表』という肩書きがついて市場価値も上がりますし、さらには引退後のセカンドキャリアも考えると、自分のブランディングにもなる。不景気なフランスで仕事をするよりも、ビエラやデサイーのように祖国で監督やコーチとして働く方が……と、いろんな想像が膨らみますよね。それにフェキルみたいな選手が祖国に戻れば、スーパースターなわけです。また純粋に1人のアスリートとしてのステップアップや国を背負う名誉を考えてより可能性の高い代表選択をするということもあるはずです。
しかし興味深いのは、どちらの代表レベルにも足る選手があえてアフリカにある祖国を選択しているということ。ケビン・プリンス・ボアテンク(ドイツ生まれのガーナ代表)などがそうですよね。一概には言えませんし、それがすべてではありませんが、どちらを選択するか、やはり物凄く時間をかけて考えると思います。その選択が自分の人生にどんな意味があるのか。サッカー選手はアーティストな部分があるから、心がおもむくところでプレーしたいと思う選手も多いはず。自分の気持ちが高ぶる方を選ぶと思います。ただ、これはどの世界でも同じですが、ビッグチームにいれば厳しい批判もプレッシャーもありますから、今あえてフランス代表を選ぶのは勇気がいる。フランスのサッカーファンも、2010年のことをまだ許していませんから。2010年以降フランスのサッカー選手にとって、特に代表は入ることで必ずしも得をしない、ということを周りからも言われる。国歌を歌わないと批判されるし、移民だからとスケープゴートにされる」
── セネガル代表のカリドゥ・クリバリはフランスに生まれながら、家庭では子供の頃からセネガルの言葉を使って育ち、セネガル人の両親もセネガルを意識して育てたといいます。だからクリバリ本人はセネガル代表というのはごく自然な選択だったと言っていました。今フランス社会において移民としてどこまでルーツを大事にしている人がいるのでしょうか?
「自身のルーツからくるアイデンティティを保つ人は増えています。その理由としては、クリバリがそうかはわかりませんが、今フランスの社会がうまくいっていない。70年代に作られた多くのニュータウンに入った移民が、希望のないままに育った。これまでに話した移民に対する議論もあって、フランスに生まれフランス人のつもりなのに、どこか社会の中に溶け込めない。そうなった時に精神的な拠りどころが祖国のルーツになる人が多いということは言えると思います」
── グローバル化やインターネットによるあらゆるボーダーレス化、それによって若い世代の間で中央集権的な概念が崩れつつあることは、アイデンティティを曖昧にもしますし、逆に自身の在り方を問うことにもなります。
「フランス人に限らず、今、現代人はアイデンティティを失っているわけですよね。『じゃあ何を頼ればいいのか?』ってことを、若い人を含めて問い直している段階なんだと思います。サッカー選手もそういうジレンマがあるのではないでしょうか。『フランス代表が自分にとっての何なのか?』ということを、移民としてのルーツを持つ選手に訴えかけづらくもなっているかもしれませんね。フランス代表のエンブレムは鶏なんですが、その鶏の意味や国歌の歌詞も、もう訳がわからないですよね、移民関係なく若い世代にとっては。だからこの問題はますます大きくなると思っています。今のフランスはフランス人にとっても居心地が悪いですから、もしかしたらそういう面からも祖国に惹かれるのかもしれませんね。祖国に帰る方が、自身のアイデンティティは感じやすいと思うし、『東京が嫌になって自分の故郷に帰ろう』と考えている日本人とも遠からずなのではないでしょうか」
── フランス社会では移民が生きにくくなっているということですか?
「アメリカは移民のルーツである国を知らない。でも、差別もしない。違うように見えても、みんながアメリカ人。ドがつくフラット。逆にフランスは移民のルーツである国に対するリスペクトも知識もあります。移民だとわかった時に好奇心も持ってくれるし、その人の祖国の文化も尊重してくれる。知りたい、聞きたいと言う。でも、学校にその人がいきなり祖国の民族衣装で登校してくると驚く。フランスのトップ企業は、『フランスらしさ』でしか勝負できていない。だから雇う社員に美しいフランス語、フランスの歴史への理解を徹底します。日本では茶道や着物文化を知らなくてもビジネスに害はないでしょう? でもフランスは違う。そうなると、雇う時に差別が起きますよね。フランスの歴史や文学やファッションを知らないと言われたら、企業は雇わない。それは差別だと思うけど、このグローバリゼーションの競争の中でフランスはそこでしか勝負できないのも現実です。
サッカーにおいても同じことが起きています。デシャン監督や協会にしても、偉大な先輩を知っておいてほしいと考えている。そういうルールに馴染めない人は、よりフラットな祖国を選んだ方がいいかもしれないですね。一方で、フランス社会で人種的な疎外感のないコミュニティに育ち、またフランス人としてのアティチュードを持った移民も多くいるので、彼らや野心・才能のある選手にしてみれば逆にフランス代表となるのは自然なことのはずです。これは無視できない要素なんですが、フランスの育成世代やトップのインフラストラクチャーや指導レベルはやはり世界5本の指に入りますし、ローカルレベルの問題もアフリカにはまだたくさんあります。一口にはとても語れないイシューではあると思います」
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以前、セネガルにルーツを持つフランス人映画監督、アラン・ゴミスにインタビューしたことがある。「自分のようなアフリカ系フランス人がヨーロッパに住んでいると、人類という地図から消されてしまっているような感覚に陥ることがある」と語る彼が言い放った、「私たちは自分たちの歴史を自分で言語化し、私たちの近代化を図らなければならない」という言葉は、今でも頭から離れない。自分たちのナラティブ、ヒーローを自分たちの手で作るというアティチュードは、アフリカルーツのアーティストに多く見られることだ。またアメリカにおいても、『ブラックパンサー』や『ムーンライト』、『アトランタ』といった映像作品やケンドリック・ラマーのヒップホップ(黒人音楽)など、ソーシャルマイノリティがメインストリームのエンタメ産業にフォーカスされ、かつ成功を収めている。フランス、そしてサッカーに関してこれらの文脈が当てはまるかといえばそうではないし、アフリカルーツのサッカー選手の国籍選択がそういった社会的な流れと直結しているかといえばそれは飛躍し過ぎかとも思う。しかしどれだけサッカービジネスが今日のように肥大化しても、ボールを蹴るのは人間だ。金、名誉、アイデンティティ、国を選ぶという動機はそんなに一緒くたに語れるものではない。そしてそんな一口で語れない物語が、またサッカーを熱くするんじゃないだろうか。
Florent DABADIE
フローラン・ダバディ
1974.11.1(43歳)FRANCE
フランス・パリ出身。父はフランス映画界の名脚本家ジャン・ルー・ダバディ。7カ国語を操るマルチリンガルで、映画雑誌『プレミア』日本語版の編集者として来日後、98~02年に日本代表監督フィリップ・トルシエの通訳を務めた。その後も日本を拠点に、スポーツキャスターとしてサッカー、テニス、自転車ロードレースを担当するなど活躍の場を広げている。
Photos: Getty Images
Cooperation: Herve Penot
Profile
和田 拓也
バンドマンやらシステムエンジニアやら世界1周を経て、NYのデジタルマガジン、HEAPS編集部でインターンシップとして勤務し、企画から取材、執筆を担当する。その後、DEAR Magazineを立ち上げる。カレーと揚げ物が3度の飯より好き。