エムバペ?それともムバッペ? サッカー選手の「名前問題」
CALCIOおもてうら
選手が国境を越えることが当たり前になった今、各国のサッカーメディアではグローバル時代ゆえの新たな悩みが生まれている。外国人選手の名前をどう呼ぶか、だ。さらに日本の場合は呼び方だけでなく、表記をカタカナに変換しなくてはならないので、さらに大変である。
各国リーグが開幕し移籍マーケットがクローズする8月末前後は、サッカー雑誌業界にとっては「選手名鑑の季節」でもあるが、百花繚乱という感じで様々な名鑑が出ていた2000年代と比べると、今はだいぶ選択肢が少なくなってしまった。
なぜかと言えば、それは制作に超絶的な手間暇が必要とされるからだ。考えてもみてほしい。5大リーグだけでも全部合わせて98チームある。1チームあたり20人ずつとしても、取り上げる選手はおよそ2000人に及ぶ。その一人ひとりについて身長・体重などの基本データを確認するだけでなく、簡単なプロフィールを文章としてまとめなければならない。レアル・マドリーやマンチェスター・ユナイテッド、ユベントスならともかく、ベネベントやアミアン、ハダーズフィールドのように2部から昇格してきた名もないクラブの誰も知らない控え選手まで含めての話である。しかも全員分を一文字違わぬ決まった文字数にぴったり収めなければならないのだ。これはもう職人芸である。
正確には「ンバペ」?…再現は不可能
名鑑に限った話ではないが、日本語のサッカーメディアにおいて誤字脱字とかを超えたレベルで問題になるのは、チーム名や選手名のカタカナ表記である。これはもう永遠に解決しない課題と言っていいだろう。
カタカナというのは日本語の発音(あいうえお)に1文字と1音がきっちり対応した表音文字だが、同じ表音文字でもヨーロッパ諸言語を表記する時に使われるアルファベットは、子音と母音の組み合わせで音を表現するというだけでなく、同じ表記でも言語によって対応する音が異なることが多い。なにしろ英語だと「エイ・ビー・スィー」だがイタリア語では「ア・ビ・チ」、ドイツ語だと「アー・ベー・ツェー」なのだ。さらに、英語の「th」とかドイツ語の「ö」、フランス語の「r」(これらはほんの一例に過ぎない)のように、そもそも日本語には存在しない発音だって少なくない。これらをカタカナで「正確に」置き換えるということ自体、そもそも不可能なのだ。できるのは、元の発音を可能な限り違和感がないようにカタカナに置き換えるというところまでである。
例えば昨シーズンまでアーセナルを率いていたフランス人監督Arsène Wengerは、アーセン・ベンゲルとも、アルセーヌ・ヴェンゲールとも表記できる。しかし我われ日本人が日本語の発音でこのカタカナを音読してみたところで、フランス語の耳しか持っていない人にはどちらをどう読んでも「彼」のことだとは伝わらないだろう。フランス語の「w」や「r」の発音は日本語に存在しないしカタカナでも表記不可能なのだから。
それ以前にまず、そもそもどの言語の発音に準拠して表記するかという問題もある。今やヨーロッパのメガクラブでは外国人選手の方が多いのが普通だ。そして、同じアルファベットで表記された一つの名前でも、言語によって読み方、発音が異なって来るというのはしごく普通のことだ。
例えば、昨夏ラツィオからミランに移籍したアルゼンチン代表のBigliaは、母国語のスペイン語だと「g」を発音するのでビグリアという表記が最も近いが、イタリア語だとgliは「リ」に近い音(これも日本語にはない発音)になるのでビリアの方がぴったりくる。アルゼンチン人のほとんどは何代か祖先をたどるとイタリア人かスペイン人にたどりつくわけで、このBigliaも元はイタリアの苗字だ。さて、スペイン語読みとイタリア語読み、どちらを採用すればいいだろうか。どちらでもいいとは思うが、サッカー選手の名前に関しては、クラブチームだけでなく代表チームでもプレーする可能性があるので、母国語読みを原則にした方がリーズナブルだ、という結論になる。
サッカー選手の名前をどう読むか、というのは、日本のサッカー媒体だけの問題ではない。ヨーロッパのブロードキャスター(テレビ、ラジオ)にとっても同じである。文字としてはアルファベット表記なので誤植以外には間違えようがないのだが、それを音声にする時には常に発音の問題がつきまとう。イタリアのテレビ局の場合は、できる限りその選手の母国語に近い発音をしようというのが基本路線。たとえイタリア系の苗字であってもアルゼンチンなどスペイン語圏の国籍を持つ選手ならばビリアではなくビグリア、マスケラーノMascheranoではなくマスチェラーノと呼ぶし、フランス人ならばラウリーニLauriniではなくロリニー、デ・マイオDe Maioではなくディ・メオと呼ぶ。かつての名選手ミシェル・プラティニやエリック・カントナもイタリア移民の子孫であり、イタリア語読みだとプラティーニ、カントーナとなるのだが、ちゃんと最後の母音にアクセントを置いてプラティニ、カントナと呼ばれていた。
ちなみに今回のW杯絡みで日本でも話題になったベルギー代表のDe Bruyne、フランス代表のMbappéは、イタリアのTV中継ではそれぞれ、フランス語に準拠しようとする意思の下に、あえてカタカナで表記すればデ・ブルインヌ、ンバペ(「ぺ」にアクセント)と聞こえるような発音で呼ばれていた。しかしこれも、発音的には例えば河内弁の話者が津軽弁の訛りを真似するみたいなもので、どうやっても真似ごとの域を出るものではなく、ネイティブ感は漂わない(イタリア語とフランス語の言語的な距離感は、津軽弁と河内弁くらいの近さだ。文法的にはほとんど同じだし)。
そうやって考えると、じゃあDe BruyneやMbappéをカタカナでどう表記するのが正しいのか、というのは、もう問い自体がナンセンスに近い。フランス語の「ru」の鼻に抜ける感じは「ル」と書いても「リュ」と書いても表現できないし、かつてのエムボマでもおなじみの「M」は、カタカナだと「エム」と書くか「ム」と書くしかないが、発音が一番近いのはおそらく「ン」だろう。しかし「ンバペ」と書いたら、しりとりが終わらなくなってしまう。
オンダ、アムシク…一体誰?
そもそも母国語に近づけようとしても、イタリア語にない発音もあるので、それを再現できないケースもある。例えばイタリア語には子音の「h」が存在しないため「ハ行」はすべて「ア行」で置き換えられる。ホンダHondaはオンダに、ハムシクHamšíkはアムシクに、ヒサイHysajはイザイーになるわけだ。イタリア語の発音と最も相性が悪いヨーロッパ言語の一つがドイツ語で、昨夏シャルケからユベントスにローン移籍してきたヘベデスHöwedesはオーベデス、今夏ユベントスからアーセナルに移籍したスイス人のリヒトシュタイナーLichtsteinerはリクステイネルみたいな感じになってくるが、そのあたりはもう仕方がない。母国語になるべく近づけようという努力そのものがリスペクトに値する。
確かなのは、外国語の表記や発音というのは、そのくらい複雑かつデリケートなものだということ。話を戻せば、それも含めてディテールまで裏を取り、選手一人ひとりにコメントをつけ、さらに誤字脱字もほぼ皆無というところまで追い込んで完成する日本の選手名鑑には感服するしかない。ここまで細かくきっちり作られたデータブックは、少なくともヨーロッパにはどこにも存在しない。作り手のみなさんには足を向けて眠れないというものである。
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Profile
片野 道郎
1962年仙台市生まれ。95年から北イタリア・アレッサンドリア在住。ジャーナリスト・翻訳家として、ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を広げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。主な著書に『チャンピオンズリーグ・クロニクル』、『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』『モウリーニョの流儀』。共著に『モダンサッカーの教科書』などがある。