リヨンとブラジルと私 FKの魔術師ジュニーニョ、語る
ブラジルでもサッカーそのものが進化している。良い情報を伝えることが貢献に繋がる
Interview with
JUNINHO PERNAMBUCANO
ジュニーニョ・ペルナンブカーノ
(元ブラジル代表)
優雅で理知的なプレースタイルと「世界ナンバー1」とも称えられた無回転FK。リヨンの7連覇をけん引したジュニーニョ・ペルナンブカーノは、現在、母国ブラジルで人気コメンテーターとして存在感を発揮している。「いつか監督になるという危険を冒してみる」と言いつつ、今の仕事の解説業を突き詰めている真面目さは何ともジュニーニョらしい。欧州、カタール、MLSを経験したサッカー王国の賢人は今何を考えているのか?
※このインタビューは17年10月に収録した
黄金のリヨン時代
もちろんトップに上り詰めるのは難しい。
でも、頂点を維持するのはもっと難しい
──まず、あなたが引退を決めたのは、どの瞬間でしたか?
「僕が現役を引退したのは2014年、39歳の時だった。プロとして20年間プレーしたんだけど、キャリアの終盤は終わりを先延ばしにしていたんだ。まだ良いプレーができていたからね。そんな中、2013年の終わり頃に所属していたバスコがブラジル全国選手権で2部に降格してしまった。それで自分の気持ちの上で、2014年シーズン最初の大会であるリオデジャネイロ州選手権でプレーした後で引退するイメージが浮かんだんだ。僕は年末、とても深刻なケガをしていて痛みでプレーも中断していたほどだったんだけれど、それでも2014年の州選手権を戦おうと頑張った。でも、限界に達したんだと思う。凄く難しくなってきたんだ。毎日トレーニングして、準備して、サッカーにハードに取り組んでいくことがね。それにケガから回復しても、自分で期待するようには、つまり以前と同じようには、プレーできないこともわかっていた。だからある日、練習に行って、みんなに引退することを告げた。もう、続けていけないことをね。
20年間の思い出が頭によみがえったし、プロ選手として一番難しい瞬間だったよ。引退した後も、その事実を受け入れ、慣れることが大変だった。でも、誰も死を免れることができないように、選手は引退を免れることができない。難しいけれど、そうやって生きていかなくてはね……」
──選手人生の中で、心に刻まれる試合は?
「たくさんあるよ。印象深い最初の試合は、キャリアを始めたスポルチ・レシフェでのこと。94年、その前年のトヨタカップで2度目の世界チャンピオンになったサンパウロに、5-2で勝ったんだ。僕らのチームは凄く若い世代で構成されていたにもかかわらずね。バスコでは396試合を戦った。98年リベルタドーレス杯準決勝のリーベルプレート戦でゴールを決めたのは思い出深いね。それからFKでゴールを決めた99年リオ・サンパウロトーナメント決勝。2000年ブラジル全国選手権決勝サンカイターノ戦でも、マラカナンでゴールを決めた。
その後のリヨンでの8年間も特別過ぎるほどの時間だった。344試合でプレーし、リーグ1で7度の優勝を達成した。チャンピオンズリーグでは8年間で通算18ゴールを決めて、リヨンの歴代得点ランキングでトップにもなったんだ。キャリアの上でも最高の時期だったし、フィジカル的にも、精神的にも、技術的にも、周囲からの信頼感も、選手なら誰でもそうなりたいと願うレベルまで到達できた。
ブラジル代表のことも、話さないわけにはいかないね。2006年W杯日本戦でゴールを決めたのは、幸せだった。チーム全体が凄く良いプレーができた試合だったね。2005年コンフェデ杯ギリシャ戦でFKからゴールを決めたのも忘れられない。僕にとっては代表初得点だったからね。その大会の決勝アルゼンチン戦で交代出場したのも思い出深い。僕らの最大のライバルと決勝を戦うという、醍醐味を味わいたかったからね。プレーしたのは最後の2分間だけど、僕にとっては100分プレーしたのと同じだけの意欲が湧いた。ましてや、ボールにも触れたんだから。
カタールでのプレーも重要だった。クラウンカップで2回優勝し、僕にとって1年目のカタール・スターズリーグで年間MVPを獲得したんだ。そんなふうに、プロとしての出場試合数は1000近くまで到達した。これだけのキャリアを築けたことを神に感謝している」
──リヨン時代はクラブにとっても、あなたがいた頃ほど良い時代は後にも先にもないですよね。
「リヨンはそれ以前から成長しつつあった。大きなメリットは、ジャン・ミシェル・オラス会長。彼はフランスサッカー最大の1つとも言える歴史を築いたと思う。まだ2部にいた1987年に会長に就任し、30年経った今ではフランスの、いやヨーロッパの有力チームだ。それはすべて彼が始めたこと。彼はいくつかのパートナーを得た時から、より良い選手たちを獲得するために投資をしたんだ。リヨンからオファーが来た時、クラブはまだ1部で優勝したことがなかった。僕が行く2年前には3位、前年は2位でね。だから僕にとっては前代未聞のチャンスだったんだ。僕の目標はいつも自分がプレーするクラブで歴史に名を残すことだったから。初優勝した時は最大の歓喜だった。でも、その歓喜の瞬間から、もっと良い選手と契約してもらいたいと感じた。初優勝を目指した1年間の、あの意欲や言葉にできない何かすべてを維持しないわけにはいかない、とね。
僕はリヨンに勝利の文化を持ち込めたと思っている。勝つんだという意欲、敗戦を受け入れない、ということを。もちろん負けることはある。でも、敗戦を感じ、その責任を負うのは大事なことなんだ。僕が行った当初はチームが負けても、引き分けても、勝っても、同じ感覚のようだった。負けた後にロッカールームに戻って、しかも多くのサポーターが応援してくれたというのに笑顔でいられるなんてね……。僕はそこを変えることができたと思っている。敗戦を感じながら、家に帰らないといけない。次の試合で勝つために、ここで起こったことを感じないといけない。僕はそういうふうに生きてきた。僕はバスコでも主力選手だった。でも、当時はエジムンドやロマーリオ、他にもたくさんのビッグネームがいたから、僕はそれほど認められてはいなかったんだ。自分でもそういう状況を受け入れていたんだけど、リヨンに行った時はそうじゃない。僕は自分自身にこう言ったんだ。『ここで僕はその他大勢にはなりたくない。最も重要な選手の1人になりたい』と。
そんなふうにクラブの投資、実力の確かな選手との契約、良いメンタリティがあって、リヨンは成長し続けた。それにチームにはGKのグレゴリー・クペがいて、CBにはクラウジオ・カサッパが6、7年いた。僕が中盤にいて、シドニー・ゴブがFW。そういったベースができていたから、その後で入って来た選手たちはみんな、僕らがやっていることを自分もやりたい、というふうになった。そういうことがサッカーで起こるのは――パリSGが記録上は僕らを抜くかもしれないけれど――凄く難しいことだと思うよ。もちろん、トップに上り詰めるのは難しい。でも、常に頂点を維持するのは、もっと難しいんだ。毎日、毎週、常に今何をしなければならないのか、何がベストなのか、と自問しながら練習していたよ」
名手ジュニーニョ、FKを語る
動作を繰り返せば繰り返すほど良くなる。練習すればするほど、うまくいく
──アメリカでもプレーしましたよね。
「MLSのニューヨーク・レッドブルズだ。短期で契約を破棄したのは、ピッチの中で良い感じでいられなかったからなんだ。監督との関係が良いとは言えなくてね。だけど、機会を与えてくれたクラブにも、サポーターや当時のチームメイトたちにも、とても感謝しているよ。それにMLSの一端を垣間見れたのは、とても良い経験になった。特に、その運営には驚いたよ。プレシーズンに審判団がやって来て、ビデオを見せながらルールについてのいろいろな説明があった。ドーピングや選手の権利、ユニオン(組合)についてなども、それぞれ責任者からレクチャーされた。僕らのようなプロもいるけれど、大学からドラフトで指名されて入団したばかりの選手もいるからね。リーグの発展がオーガナイズされていると感じたよ」
──今でも、サッカーをプレーする少年たちが、ジュニーニョのFKをマネしようとしているけど、どうやってあのスタイルを生み出したんですか?
「僕はいつでもキックがうまかったんだ。シュートでも、パスでもね。僕はフットサル出身なんだけど、あれはボールがもっと小さいし、スペースも狭い。それがキックがうまくなる助けになった。僕はバスコでもFKを蹴っていたんだけど、ブラジルでは特に僕の時代にはどのチームにも2、3人はFKのキッカーがいた。だから、交代で蹴っていたんだ。ところがリヨンに行った時、チーム練習の後でFKの居残り練習をする習慣がなかった。それが僕にとってはチャンスになったんだ。誰も練習しないなら、僕が全部蹴るぞ、と。それで、さらに磨きをかけた。練習、実戦、自己評価。FKというのは、動作を繰り返せば繰り返すほど良くなるものなんだ。練習すればするほど、うまくいく回数は増える。バスコでやっていたことも良かった。例えば、アントニオ・ロペス監督の時はサイドからゴール方向に向けて蹴ることを凄く要求されていたんだ。そういう繰り返しも、僕のキックの完成度を上げてくれた。
僕が現役の頃はボールも大きく変わったよね。ボール自体が少し、軌道を変えてくれたりするのが良かった。僕はちょっと普通とは違う蹴り方をするんだ。FKを蹴る時は、ロングパスを出す時と同じで、ボールにあまり回転をかけないことを意識している。それが僕の自然なスタイルだし、最大の武器。足のどの部分で蹴ろうとも、あまり回転しないボールを蹴ることができれば、ボールの軌道は途中で大きく変わるんだ」
頭脳明晰なコメンテーターの秘密
気を付けているのは、みんなが理解できること。専門用語ではなく、簡単な言葉で話す
──引退後の仕事として、コメンテーターを選んだ理由は?
「選んだわけじゃないんだ。引退すると、少し道に迷うもの。そんな時、フランスのラジオから声がかかって、自宅で週に1度、解説の仕事を始めた。RMCでも週2回やるようになった。そして、ブラジルのTVグローボで、W杯ブラジル大会のコメンテーターをする機会が訪れたんだ。それから、ラジオ・グローボでジーコと一緒に番組をやった。そうやって自分の時間が埋まってきた。でも、またピッチに戻るという考えも、僕の頭から取り去ったことはない。チームを指揮し、自分が学んだことを伝えたいんだ。今、自分がやっていることに喜びを持っているけど、監督になるための講座も受けようと考えている。そして、たぶんいつか自分のキャリアの上で、監督になるという危険を冒してみるよ」
──試合を解説する上で、選手としての経験をどう生かしていますか?
「ジャーナリストは大学で価値ある勉強をし、育成されてきた。僕ら元選手はそういう勉強をしたことはないけど、プロとして20年間プレーしたことがそれを埋め合わせている。実況と解説とは、その両者が補完し合うものだと思う。僕はすべての選手のプレーを知っている。選手が何をしようとしているのか、何を考えているのかもわかる。僕はいつでも学ぶことに興味を持っていたし、質問するのが好きだった。人の話を聞いたし、機会があれば、自分も話した。試合の状況を分析するのにほんの数秒しかないんだから、プレッシャーもある。でも同時にそれは僕が知っていて、理解していることでもあるんだ。だから、時間とともにコメンテーターとしての信頼を得つつあると思うよ。
それから、僕が解説する上で気を付けているのは、みんなが理解できるようにすること。サッカーをわかっている人たちだけに通じる専門用語ではなく、簡単な言葉で話すのが好きなんだ。サッカーをみんなのものにするために。多くの人がスタジアムに行っても、戦術的なことはわからない。でも、なぜゴールが決まらなかったのか、なぜボールをふかしてしまったのかを、知りたがっている。なぜ、その選手が体勢をより良く整えられなかったのか? なぜ別の足でシュートしなかったのか? そういうことすべてが、サッカーの魅力なんだ。それを伝えられるのはうれしいことだよ」
──サッカー番組で話すのは、試合中継とは違った醍醐味がありますか?
「例えばラジオで、試合で何が起こったのか、なぜこういう結果になったのか、僕の意見を言うよね。ただ、サッカーというのは2人が同じ試合を見ても同じ意見にはならない。でも、どちらの意見も正しいんだ。だから、サッカーは面白いんだよ。いろいろな方向で、試合を理解することができる。例えば、ジーコとトーク番組をしている時には尊敬してやまないジーコとだって議論するんだ。サッカーを理解する手助けをするために議論する。僕らが人生を通してやってきたサッカーというものに対し、可能な限りはっきりした意見を、心を込めて伝えようとしている。
今の僕の主な関心は、ブラジル全国選手権やブラジルサッカーをサポートすること。ますます成長していっているからね。特に2014年W杯の後、ブラジルでもサッカーそのものが進化しているし、運営や環境などすべてが改善されつつある。そういう中でコメンテーターとしては、より良い情報をサポーターに伝えることが貢献に繋がると考えているんだよ」
──最後に、日本のサポーターにメッセージを。
「これまでずっと、僕に愛情をそそいでくれたことに感謝したい。日本には3回行ったんだ。もう長い間行ってないけど、必ずや僕の子供たちを連れていきたい。素晴らしい国で、素晴らしい文化を築いたみなさんは教養があって、勤勉で、とても良いお手本だからね。僕にとっては、あなたたちと話すのは、いつでも大きな名誉だよ。みなさんに大きなキスを」
Antônio Augusto Ribeiro Reis Júnior
“JUNINHO PERNAMBUCANO”
アントニオ・アウグスト・リベイロ・レイス・ジュニオール
“ジュニーニョ・ペルナンブカーノ”(元ブラジル代表)
1975.1.30(42歳) MF BRAZIL
PLAYING CAREER
1993-95 Sport Recife
1995-01 Vasco da Gama
2001-09 Lyon(FRA)
2009-11 Al-Gharafa(QAT)
2011-12 Vasco da Gama
2013 New York Red Bulls(USA)
2013-14 Vasco da Gama
Photos: Kiyomi Fujiwara, Jorge Ventura, Getty Images
Profile
藤原 清美
2001年、リオデジャネイロに拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特にサッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のTV・執筆等で成果を発表している。W杯6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTube『Planeta Kiyomi』も運営中。