フッキ、日本での思い出を語る 「素晴らしい3年半だった」
“僕の人生はいつでもそう。毎朝起きた時にもっと強くなろうと考えてきた”
Interview with
HULK
フッキ(上海上港)
サッカー王国ブラジルを18歳で飛び出し、文化のまるで違う日本へ。その後も欧州の中でも5大リーグではないポルトガルや東欧ロシアを経て、2016年に再びアジアは中国の地へと降り立ったフッキ。ユニークなサッカー人生を歩み続ける“超人”が、新たな挑戦の地に選んだ中国の印象、そして「いつでも僕らの心の中にある」という日本をはじめこれまでの旅路を振り返る。
※このインタビューは17年9月に収録した
中国の“居心地”
やって来る監督たちが、自分の哲学を植えつけていっている
――まず、中国でプレーするという大きな決断を下した、最大の動機から聞かせて下さい。
「決断するのには、少し時間がかかったよね。ヨーロッパには2008年から8年間いたんだから。中国サッカーからオファーを受けたのは初めてのことじゃなく、何年か前にも僕を呼びたいという話があった。
で、昨年またオファーを受けた時に家族やみんなと話したんだ、機は熟したかなって。中国サッカーは年々成長しているし、もちろん投資の額も凄い。僕が受けたオファーも、断りようのないレベルの金額だった。
でも、サッカーが凄く成長しているから来た、というのもあるんだ。1年ごとにさらなる成長を遂げ、ビッグネームの選手たちとも契約している。それは中国スーパーリーグにとってすごく重要なことだよ」
――フッキの人生はいつも挑戦。日本、ポルトガル、ロシア、中国とまったく違う国ばかりなのに、それだけ適応できる秘訣は? 中国でも、デビュー戦でいきなりゴールを決めましたよね。
「サッカーというのは、世界のどこでも同じだと思うんだ。人間というのは、好きなことをする時には簡単に適応できるもの。僕にとってはそれがサッカーだ。特に、新たな環境に飛び込んだ時に凄く歓迎されたり自由にやらせてもらえると、そういうすべてが助けになる。ここに来た時もそうだったし、僕自身も大きな意欲を持ってここへ来た。
何よりもまず、乗り越えようとする気持ちだよね。確かに簡単ではない。どこへ行っても、目の前には多くのハードルがあった。でも、僕の人生はいつでもそう。子供の頃から困難を乗り越えようとしてきたし、毎朝起きた時にもっと強くなろうと考えてきた。そのために、日々学んできたんだ。だから、ここでも僕の歴史の一部を綴りたい。ゼニトやポルト、日本のクラブで築いたような、美しい歴史をね。ここでタイトルを獲りたいし、多くの友情も築きたいんだ」
――中国サッカーはどんなスタイルですか?
「監督ごとに自分の考え方がある。だから中国にやって来る監督たちは、それぞれに自分の哲学を植えつけていっている。上海上港の場合はアンドレ・ビラス・ボアスだ。到着したその日から、もう彼の哲学をもたらした。例えば、彼はボールをキープするのが好きだ。それを中国人のチームメイトたちは急ピッチで習得していっている。中国の選手たちの良いところだよ。学ぶのが早い。そして、学んだことをすぐに試合で生かす。実践するんだ。練習はいつでもハードだけど、日々、成長していくのを見られるのは素晴らしいことだよ」
――監督がポルトガル人なのも、フッキには助けになっているのでは?
「僕が加入した時は(スベン・ゴラン・)エリクソンが監督だった。知り合えて幸せだったし光栄に感じたよね。輝かしい歴史を築いた監督だし、知的な人。あれほどの“紳士”を見たことがない。僕がここへ来た時、凄くサポートしてくれた。一緒に過ごした時間は短かったけどね。ビラス・ボアスとは付き合いが長くて、ポルトでもゼニトでも彼の指揮下でプレーした。だからもちろん助けになる。監督と親しいと、僕がどこまでできるかわかってくれているから」
――あなたの後に、セレソンのチームメイトでもあるオスカルがチームメイトになりました。中国の国内では、あなたとオスカルのコンビが中国サッカーを変える、と話題になっていたと聞きました。
「そういうプレッシャーはいいよね。どう機能するか見たいとみんなが期待している。そういう期待感の中で仕事をするのは、自分の重要性を感じられるしモチベーションにもなる。期待に応えられるように、チームが払ってくれる金額の価値に見合うように、って。僕らが経験してきたこと、特に長年にわたるセレソンでのプレーの価値が重みを増すんだ。セレソンにいれば、みんながもっと良いプレーや活躍を求める。それはここでも変わりはない。だから、僕らのモチベーションは凄く高いよ。僕らに成された投資の価値があった、という貢献ができるように。おかげさまで、今年はとても順調。そして、日ごと、試合ごとに良くなるように頑張り続けることだ。オスカルは人として素晴らしい。ピッチの中でのクオリティが高いのと同じく外でも謙虚な素晴らしい人間だから、彼も必ずここで幸せになれるはずだよ」
――上海の街での生活はどうですか?
「おかげさまで、これほど素晴らしい街に来られて幸せだよ。こんなにファンタスティックだとは、想像していなかった。美しい街である上に、子供たちのための良い学校など家族に必要なものがすべてそろっている。大事なことだ。家族にとって良ければ、すべてがやりやすくなる。息子たちはここに住むのを気に入っているし、妻もそうだ」
――時間がある時には何をしていますか?
「ほとんど家族と一緒にいるんだ。僕らのルーティンは練習、試合、遠征と凄くハードだからね。家に帰った時、子供たちが休日だったら彼らを連れてこの辺りを散歩する。子供たちにとって、出かけるのに良いところがたくさんあるから。あとは、家族みんなでレストランに行く。だから、良いレストランはたくさん知っているんだけど、推薦はやめておこう。客寄せしているようになるのもなんだから(笑)。4、5日間の休暇がある時はこの近くの国々を旅行している。タイのように、中国にいるからこそ近くになった国に行ってみているよ」
――あなたは子供の面倒をよく見るお父さんみたいですね。
「それはもちろん。僕はいつでも子供に夢中なんだ。熱烈に愛している。それに、人生最大の夢は父親になることだったんだ。それが21歳という若さで実現して、今は2人の男の子と女の子が1人。凄く幸せ者だよ。僕はすべてに恵まれていると感じている」
日本、ポルトガル、ロシア…あの日の記憶
特別の特別と言えばヴェルディのサポーターだった
――ここからは少し、あなたのサッカー選手としての歴史を振り返らせてください。まずは日本についての思い出を話してもらえれば。
「日本サッカーでは3年半を過ごした。日本に行った時はまだ18歳で、しかも1人暮らしだった。だから凄く大変だったけど、同時に良いことでもあったんだ。日本の人たちが僕を歓迎し、手助けしてくれるのを感じられたから。日本に感謝しているし、日本のことが大好きだ。また何度でも訪ねたい国だよ。特に、子供たちと行く機会ができれば凄く価値があることだね。
僕は3つのクラブでプレーした。川崎フロンターレとコンサドーレ札幌、そして東京ヴェルディ。最初に呼んでくれたのはフロンターレだったんだけど、結果として、出場した試合は一番少ない。その後、1年間のレンタルで札幌に行った。J2だったけど、僕らは凄く好調だった。その後はヴェルディ。僕にとっては、日本での一番良い時期だった。監督はラモスで、僕らはJ1に昇格した。僕は得点王になって、しかも歴代記録を破る38ゴールを決めた。だから、あそこではみんなの心に刻まれた。ヴェルディのサポーターが、僕のために歌ってくれるのを今でも覚えているよ。
“♪エー、フッキ・ゴール、フッキ・ゴール、フッキ・ゴール、フッキ・ゴール、ラー、ボンバ!♪”
ヴェルディでのJリーグ初戦ですぐ、ロングシュートでゴールを決めたのが、印象強かったんだろうね。かなりの距離で、強烈なシュート。それで、サポーターはこれを歌い始めた。僕にとっても、あのゴールは心に残るものだったよ。早くゴールを決めて、サポーターに喜びを与えたいと思いながらピッチに入って実現できたんだから。素晴らしい日々だった。ヴェルディのサポーターにはもの凄く大きな愛情を持っているんだ。もちろん、3クラブ全部そうなんだけど、特別の特別と言えばヴェルディのサポーターだった。より良い時期だった、というのもあるしね」
――ポルトでは、サッカーの世界におけるあなたの存在を確たるものにしましたよね。まだ若かったし、外国人なのにキャプテンも任されて。
「凄く大きな信頼だよね。僕はJリーグからポルトに行った。アジアとヨーロッパはまったく違うから、いろいろな困難を予想していたんだ。でも、あそこに着いた時に凄く歓迎してもらえてね。それに、自分の思うようにやらせてくれたのもあって早く適応できたんだ。ポルトに入ったばかりの頃、ポルトガル・カップのアウェイでのスポルティング戦でゴールを決めた時から、みんなの信頼を感じ始めた。僕自身、自分の特徴も出せるようになった。キャプテンを務めるのは、責任も凄く重い。特に、いつでもタイトルを争っているポルトのようなビッグクラブだからね。でも、ポルトは選手にすべてを与えてくれるクラブだし、ピッチの内外で素晴らしいチームメイトたちがいた。だから凄くやりやすかったし、僕もプロとして、キャプテンであろうがなかろうがベストを尽くしていたよ」
――ゼニトでも活躍したんですが、最初は大変だったと聞いています。
「最大の困難は、ロッカールームだったと思う。それまでああいうことはなかったんだ。日本で3年半プレーした時、チームの雰囲気は素晴らしかったし、選手たちはみんな尊重してくれた。冗談を言い合えた。その後、ポルトで4年間を過ごしたけど、そこでもみんなと友情を築き、尊重し合えた。ゼニトには、クラブが僕に凄い額を支払ったこともあって一目置かれるような形で行ったんだけど、チームメイトたちを見ると……選手同士っていうのは普通、クラブで日々をともにしている間に家族のようになるものなんだ。
でも、隣を見るとチームメイトが僕の良いプレーを望んでいないのがわかる。嫉妬とかそういうことでね。難しいことだったよ。僕にとって、ゼニトでの最初の1年半は凄く大変だった。他の選手より自分の方が良いプレーをしている、と考えるような選手が何人かいたんだけど、彼らがチームを去った後チームは良くなって、試合に勝ち始めた。その後は喜びばかりだよ。たくさんの良い瞬間を経て、ロシアプレミアリーグやロシアカップ、スーパーカップのタイトルを獲得した。だから僕にとって、あれを乗り越えられたことは凄く良かった。困難の後で、すべてが喜びに変わったのは素晴らしいことだったよ」
――今のセレソン(ブラジル代表)をどう見ていますか?
「凄く良いセレソンだよ。素晴らしい仕事をしているし、チームは喜びを持ってビューティフルゲームをしている。僕はブラジル人として、幸せに思うよ。いつでも応援しているんだ。チッチ監督と選手たちにおめでとうを言いたい」
――フッキも中国で好調だから、セレソン復帰の可能性もありますよね。
「いやいや、大丈夫。僕は落ち着いているよ。ここで自分の仕事をしながら、セレソンを応援している。もちろん、監督が僕を呼んでくれるなら、これ以上ない喜びだ。選手にとって最高の時というのは、代表のシャツを着る時だと思うからね。あのシャツを着る時は、ブラジルだけでも2億人が自分たちを応援しているんだ。それ以外にも、世界のどこでもセレソンが行けばみんなが歓迎してくれる。それはとてもうれしいことだよ。世界で最も愛される代表チームの一員であれるなんてね」
――では、フッキのサッカー人生における今後のプロジェクトは?
「まずは上海上港での4年間の契約をまっとうすることだね。ここを気に入っているし、クラブはどんどん成長している。まだ1部リーグで優勝したことがないから、ここでタイトルを獲りたいというモチベーションが高いんだ。ケガをしないように守ってくれるよう、神様にお願いしたんだよ。そして、良いプレーを続けられるように。そのために、コンディション維持に努めている。その後のことはわからないな。未来は、神様の手の中にあるからね」
――最後に、日本のサポーターにメッセージを。
「いつでも僕や、僕の家族に注いでくれる愛情に感謝したい。日本に住んだ3年半は素晴らしかったし、幸せだった。人として、すべてにおいて凄く成長できた。だから、日本はいつでも僕らの心の中にある。どうもありがとう。『ドウモアリガトウゴザシ……、ドウモアリガトウゴザイマシテ……』違う? 日本語、もう少し話せたんだけど、長い間、使ってないから(笑)。『ドウモアリ……、ドウモアリガトウゴザイマシタ!』」
Givanildo Vieira de Sousa “HULK”
ジバニウド・ビエイラ・デ・ソウザ “フッキ”
1986.7.25(31歳)180cm/85kg FW BRAZIL
PLAYING CAREER
2004 Vitória
2005-08 Kawasaki Frontale (JPN)
2006 Consadole Sapporo (JPN) on loan
2007 Tokyo Verdy (JPN) on loan
2008 Tokyo Verdy (JPN)
2008-12 Porto (POR)
2012-16 Zenit (RUS)
2016- Shanghai SIPG (CHN)
Photos: Jorge Ventura, Getty Images
Profile
藤原 清美
2001年、リオデジャネイロに拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特にサッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のTV・執筆等で成果を発表している。W杯6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTube『Planeta Kiyomi』も運営中。