トルシエとハリルホジッチ。15年前を思い出す2人の“共通点”
ロシアへ。日本代表勝利の鍵は
「なんかトルシエみたいな人が来ましたね」
2015年3月13日に行われたヴァイッド・ハリルホジッチ監督の就任記者会見を終えて、友人の記者たちとそんな話をした――というような記事をかなり以前に書いたことがある。「東欧のおじいちゃん」ということで“オシム的なもの”を予想(あるいは期待)していた多くの記者たちにとって、ある種のサプライズだったかもしれない。
当時からだいぶ時間が経ってしまったが、その後の流れを思うと、このファーストインプレッションは大筋で間違っていなかった。というより、当初感じていた以上に監督本人というよりも彼を取り巻く状況が“トルシエっぽく”なってきている。
若いファンのために補足しておくと、フィリップ・トルシエ氏は1998年から2002年まで日本代表監督を務め、99年のワールドユース(現・U-20W杯)準優勝、00年のシドニー五輪8強入り、同年のアジアカップ優勝、01年のコンフェデ杯準優勝、そして02年の日韓W杯で日本を初の決勝トーナメント進出へ導いたフランス人指揮官である。こういう書き方をすると順風満帆で結果を残した監督のように聞こえてしまうが、実際はかつてないほどの毀誉褒貶(きよほうへん)が渦巻いた4年間だった。
監督としてのキャリアにおける最大の成功事例はアフリカにあり、国際レベルで傑出した実績を持っていたわけではなく、日本での知名度や実績は乏しかった。就任当初から批判の種は尽きなかった(※トルシエ監督の話である)。多かった批判はこのあたりだろうか。
「日本人への理解がない」
「日本サッカーやJリーグへの敬意がない」
「常に怒っていて、感情的に過ぎる」
「実績のあるベテラン選手を切り捨てている」
「管理主義的で、選手を子ども扱いしている」
「フィジカルトレーニングを要求する」
「採用している戦術が理解できない」
「やっているサッカーが機械的で面白くない」
記者との関係も着実に険悪になり、新聞を中心とするオールドメディアは反トルシエ一色に近い状態になっていった。どこからともなく解任報道が沸き起こったのも、1度や2度ではない。そのたびにトルシエ監督は正面からメディアを批判し、時にはパフォーマンスで応酬した。キャプテンの選考について批判的な質問をしたライターの腕にキャプテンマークを巻いてみせたこともあった。
こうしてみると、誰かに似ている展開である。
国民性そう簡単に変わらない
もちろん、2人は同一人物では決してないし、時代背景も大きく異なっている。相違点を探すのも容易だろう。たとえばトルシエ氏には選手としての実績がないが、ハリルホジッチ氏には大いにあるし、そもそも2人の日本代表監督就任時の年齢はかけ離れている。しかし、似ている部分は確かにある。
国の文化や、国民性のようなものは一朝一夕に変わるものではなく、必然的に似たようなタイプの指揮官には、似たような展開が待っているということなのだろうか。
時代背景や国民性と言えば、トルシエ政権当時はインターネット黎明期。ちょうどこの名物監督をめぐる侃々諤々(かんかんがくがく)の大激論がネット空間を賑わせることとなっていた。トルシエを支持する人もいれば、批判的に論じる人もいたわけだが、反トルシエの色が非常に濃かったオールドメディアの旗色に比べると、その差は歴然としていた。当時ネット上で活動していたアマチュアライターの中には、その後に業界入りした者も少なくない。
当時と比べて「ネット」を取り巻く状況は激しく変化しているので単純比較する意味はあまりないかもしれないが、商業メディアに対する強い忌避感の下で監督擁護の論説が展開されているという点では共通した面もある。ポジティブな方向でもネガティブな方向でも、過剰に監督の存在を評価している言説が目につくのは当時と同じである。「とにかく監督を解任すればOK」という意見と、「とにかく監督に盲従していればOK」という意見は、どちらも的外れに思える。
少々話が脇に逸れてしまったが、2人が似ているというならば、代表チームのここからの経過と行き着く先も似ているのだろうか。16年前の当時、トルシエジャパンはW杯予選がなかったために、もっぱら親善試合をこなしていた。フランスに0-5の大敗を喫しての軌道修正から臨んだ6月のコンフェデレーションズカップではそのフランスに0-1の惜敗で準優勝を果たした。
続く8月には、アジア王者とオセアニア王者が対戦するAFC/OFCチャレンジカップでオーストラリアに3-0と完勝しており(当時のオーストラリアはまだオセアニア所属だったのだ)、やっぱり奇縁を感じずにはいられないのだが、いずれにしても解任論が結果で封じ込まれ(報道の空気はそう変わらなかったように思うが)、我われファンは結構夢見る気分だった時期だった。
ところが、このあとに重ねていく親善試合では結果・内容ともにいま一つのゲームが多く、チームは下降線に入っていく。W杯1年前にチームとしてのピークが来てしまったというのが今にして思う個人的な印象だが、これを受けて指揮官は最後の最後に至って大きな決断を下すこととなる。
驚天動地の“背番号10”外し
背番号10を背負うスター選手をチームから取り除くと同時に、集団内で重しとなれるベテラン選手を新たに加えたのだ。これは驚天動地の大騒ぎとなり、再び監督をめぐる議論が加速することとなったが、初の16強入りという結果は残ることとなった(その評価もまた大きく分かれることになったのだが)。
これと似たような展開があるかと言えば、前者についてはないとは言えないだろう。少なくともこの2人の指揮官はどちらも、スター選手の存在がチームを強くするとは考えていない点で共通したものがある。後者についても、もしもチームが壊れそうな雰囲気があるならば、ベテラン抜擢に限らず、ムードメイキングを意図した決断自体はあり得る。ハリルホジッチ監督はメンタルを軽視するタイプの指揮官ではない。
もう一つ、トルシエジャパンで起きたこととして挙げておきたいのは、結果が出ない中にあって監督が戦術面で強く求めてくるものを選手側が柔軟に解釈し、うまくやろうとする動きが強まり、次第に形になっていったことだった。機械的にではなく、臨機応変に戦うことを希求することで、チームは最後にもう一段階強くなることができた。
当時はまるで造反が起きているかのようにも報道されていたが、実態としては選手と監督が互いに意見をぶつかり合わせながらうまい落としどころを見つけたという話である。実は指揮官も最初からそういう反応こそ望んでいた節もあり、この点もハリルホジッチ監督は意外に共通しているのではないだろうか。
最初は強烈な指揮官の自己主張に対して萎縮したり反発するだけだった選手たちの心理面でのブレイクスルーは、あのチームが最後に迎えたキーポイントであり、大きな分水嶺でもあった。
もちろん、ここからわずか9カ月弱の期間で、濃密な4年間を過ごしたトルシエジャパンのような境地をハリルジャパンの面々が切り開けるかは何とも言えない。だが、単なる反抗や反発ではない議論や葛藤から生まれる材料はきっとある。日本代表のロシアにおける勝機は、指揮官と選手たちの間に落ちている。そんな気がしている。
Photos: Bongarts/Getty Images, Getty Images
Profile
川端 暁彦
1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣『エル・ゴラッソ』を始め各種媒体にライターとして寄稿する他、フリーの編集者としての活動も行っている。著書に『Jの新人』(東邦出版)。