源流はアンジェ・ポステコグルーにあり。2年連続で昇格を掴んだ栃木シティ・今矢直城監督のキャリアを紐解く。【インタビュー前編】
栃木シティが関東リーグ、JFL(日本フットボールリーグ)を2年連続で突破し、クラブ史上初めてJ3参入を決めた。チームを率いる今矢直城監督は、かつて横浜F・マリノスで指揮したアンジェ・ポステコグルー(現トッテナム)の通訳を務めた経歴を持つ。
躍進を続ける栃木シティの今矢監督が拘り抜く哲学とは何か。前編では知られざるキャリアを紐解いてみたい。(このインタビューは12月3日に収録した)
幼少期は豪州で過酷な学校生活を過ごす
――栃木シティのJ3昇格、おめでとうございます。途中から18戦無敗で勢いに乗り、逆転優勝にたどり着いた流れは、本当にすごかったですね。
「ありがとうございます。結果的に昇格しましたけど、何とか、何とか。やってる方としては、けっこうギリギリでした」
――そのあたりの今季の奮闘記は後編に取っておき、今日は先に今矢監督の異色のキャリアやご自身のキャラクターについてお聞きした後、今季の栃木シティについて話を聞きたいと思っています。今矢さんは、生まれは兵庫ですか? それとも大阪ですか?
「生まれは兵庫になります。その後、大阪で10才まで育ちました」
――その頃からサッカーをしていたんですか?
「4つ上の兄がいましたけど、公園に行ってボールを蹴るくらいでしたね。チームには所属していなかったです」
――10歳の時にオーストラリアへ移住したんですよね?
「そうですね。うちの両親は英語圏、特にオーストラリアに興味があり、関西国際空港の免税店で働いていたんです。新しい免税店がシドニーでオープンする時、平社員になるけど、それでも行きたいということで、父親の仕事の関係で家族で移住しました。最初の2、3年くらいは生活が苦しかったですけど、まあ、思い切って行ってくれたおかげで、僕は英語ができるようになりましたね」
――10歳で海外へ移り住んで、馴染むのが大変だったのでは?
「そもそも僕は英語なんてひと言もわからない小学4年生だったので。今の時代なら、少しは小学校で馴染みもあるかもしれないけど、当時は全然です。そこからいきなり、全部英語で授業が始まるわけですから。戸惑いがないと言えば嘘になるけど、たまたま僕が入った小学校は優しい子が多くて、昼休みに鬼ごっこして遊びながら英語を学んだり、そこは運が良かったです。ただ、ハイスクールは白人主義の学校で、それこそかなり人種差別を受けました」
――具体的に何があったか、話してもらうことはできますか?
「言えますよ。石を投げられたり、ハイスクールには中1と高3が一緒に在学していて、4つか5つ上の上級生たちに日常的に投げ飛ばされたり。だから授業の移動とかは、逃げながらですよ(笑)。それが4年ぐらい続きました」
――それはアジア系がターゲットだったんですか?
「そもそも95%が白人のハイスクールで、アジア人はインド人が2人くらいと、日本人は僕を含めて2人くらいしかいませんでした。同級生や1つ上の子たちとは仲が良かったので、高2と高3の間は楽しくやれましたけど、高1までが大変。かなりやんちゃなハイスクールだったんですよね。僕の同級生で警察官になった子がいて、その子が大人になって日本に遊びに来た時、『そういうこともあったよね。ちなみに、あの子たち(当時の上級生)は、今どうしてるの?』という話になって、『まあ俺、警察官だからだいたいわかるけど、半分ぐらいは良い道で終わらなかった』って」
――そうなんですか。
「本当にそれくらい荒れていた学校でした。ザ・いじめというか、差別ですよね。単純に日本人だから。抵抗も何もできないです」
――他の学校とか、選択肢はなかったんですか?
「うーん、まあ何て言うんですかね。言うのも恥ずかしい時ってあるじゃないですか。いじめられていることを。あとは別に、同級生とは仲が良いし、前のサッカーチームの子もいたから。だから学校が嫌というよりは、昼休みと移動中が辛かっただけでした」
――なるほど。上級生から逃げれば、何とかなったと。
「そうなんです。それこそ授業中にもクラスで露骨にいじめられていたら、さすがに僕も嫌だったと思うんですけどね。まあ、部分的だったので」
17才でプロ契約。広島の練習参加も転機に。
――少し話に出ましたけど、そういう異国生活が10歳から始まった中で、サッカーとはどうやって関わるようになったんですか?
「最初はたまたま街中を歩いていたら、サッカーチームの登録があったので、うちの親父が応募してくれて、そのままローカルチームに入りました。そこで活躍してると、ある親御さんが『地域の代表チームがあるよ。クラブと選抜みたいに両方に所属できるんだよ』と教えてくれて。僕はそれに受かって、土曜日はクラブ、日曜日は選抜みたいに、最初の入りはそんな感じです」
――そこで友達ができたのは大きかったですか?
「そうですね。やっぱり、サッカーにすごく助けられた部分はあります」
――その頃からプロ選手を目指していたんですか?
「そうですね。4つ上の兄がいて、彼もプロを目指していたので、良いトレーニングパートナーになりながら。ただ、僕は選抜チームから外されたりとか、いろいろありました。 これは差別ではないんですが、当時のオーストラリアはイタリア系とかクロアチア系とか、移民の子を中心にしたレベルの高いチームがあったんですよ。そういうのをなくそうとしてAリーグができたので、今はありませんが、そこに日本人が入るとなると、簡単ではなかったですね。同じ人種で固められているので。もちろん、僕に実力があれば入れますが、その力がなかったので、なかなか上に行けませんでした。
その後、17歳くらいの時に上のチームに呼ばれて、セカンドチームに登録してもらって、2年半くらいやった後、プロになれたという感じですね」
――サンフレッチェ広島の練習に参加したこともあったんですよね?
「おっしゃる通りです。その時は18歳で、残念ながら契約には至らなかったんですが、エディ・トムソン監督の下でヘッドコーチをしていたトム・セルマーニという方が僕を覚えてくれていて、彼が広島の後にオーストラリアに戻って、キャンベラ・コスモスというチームで監督に就いた時、僕を呼んでくれました。あの時、広島の練習に参加した甲斐はあったなと思います(笑)」
――それから何年もオーストラリアでプレーしたわけですが、当時のプロ生活はどうでしたか?
「僕自身は契約がすごく良いわけではないので、本当に日々生活するのがやっとでした。上を目指して、何とか良い契約をもぎ取ろうと、必死にやっていました」
欧州クラブに“日本代表”として挑戦
――その後、欧州を目指したんですよね。……
Profile
清水 英斗
サッカーライター。1979年生まれ、岐阜県下呂市出身。プレイヤー目線でサッカーを分析する独自の観点が魅力。著書に『サッカーは監督で決まる リーダーたちの統率術』『日本サッカーを強くする観戦力 決定力は誤解されている』『サッカー守備DF&GK練習メニュー 100』など。