情熱を求めて――山口智弘、アルゼンチン1部クラブで挑戦する16歳の犠牲と努力【現地取材】
“日本にとどまっていたら自分は弱くなる”――そう小学4年生の時に危機感を覚えた山口智弘少年(2007年生まれ)は2年後、11歳で単身アルゼンチンに渡った。それから5年、努力を重ねたウラカン下部組織所属のウインガーは、未来のスター候補として現地で注目を集めている。海外挑戦を志す日本人選手の多くが欧州を目指す中、彼はなぜアルゼンチンを選んだのか。そして、その苛烈な競争をいかにして勝ち抜き、成長を遂げてきたのか。今日も地球の裏側で闘う16歳をChizuru de Garciaさんが取材した。
「この選手を実況していると、彼が将来輝く可能性を感じる」
「Viva Japón!」(日本万歳!)
去る6月15日に行われたAFA(アルゼンチンサッカー協会)主催の公式ユースリーグ第11節ウラカン対バラーカス戦で、試合の実況担当者エセキエル・バラーダは、1人の日本人選手のプレーに魅了されるや興奮気味に叫んだ。
プロデビュー前の未来のスター候補がひしめき合うAFA公式ユースリーグで、アルゼンチン育成世代の逸材を常に間近で見ているバラーダに「彼がボールを持つたびに期待してしまう」と言わしめた日本人の名前は山口智弘。2020年、アルゼンチンサッカー史に名を残す数々のレジェンドを生み出した名門ウラカンの下部組織に入団し、現在は同クラブの6軍(満17歳のカテゴリー)でエクストレーモ(ウイング)を務める16歳だ。
「彼の鍛えられた足を見たことがあるかい? あのふくらはぎはプロの足だ」
山口の印象について聞かれたバラーダの口からは、感嘆の言葉が次々と飛び出す。
「我々アルゼンチン人が抱く“日本人選手”の印象は一般的に“速い”というものしかない。でもヤマグチは群を抜く速さの他にあらゆる素質を秘めている」
バラーカス戦の後、バラーダは自身のSNSで山口のプレー動画を引用しながら「この選手を実況していると、彼が将来輝く可能性を感じる。ヤマグチは注目に値する」と書き込んだ。そしてその言葉の通り、バラーカス戦を機に「ウラカン下部組織所属の日本人」はアルゼンチンの育成世代を追うサッカー愛好家たちの目に留まり、クラブ専門メディアをはじめ、大手スポーツ紙『Olé』からも取材依頼が舞い込む事態となった。
このようなことになる前の5月中旬、私は山口にインタビューをする機会に恵まれた。18歳以下の外国人選手として、念願のAFA公式ユースリーグ登録が実現した直後というタイミングだったが、彼はその翌週、U-17アルゼンチン代表の至宝フェリペ・エスキベルを擁する強豪リーベルプレート6軍との試合でさっそく公式戦デビューを果たした。リーグ戦登録からわずか1カ月で注目の存在となる目まぐるしい展開に本人もさぞ興奮しているだろうと思い、感想を聞いたところ、11歳の時からアルゼンチンでプロを目指し、この国の苛烈な競争世界で揉まれ、鍛えられ、努力を重ねてきた山口の答えは実に冷静なものだった。
「嬉しかったです。でも自分はこのため(AFA公式戦に出場するため)にずっと練習をしてきたので、気持ちの変化は特にありません」
“アルゼンチンのサッカー”=「1試合に懸ける思いの強さ」を体感して
山口にサッカーの素質があることを最初に見出したのは、1歳の我が子がボールの芯を蹴っていることに気づいた母・香織だった。自宅前の緑地にて連日ボールを蹴る日々を過ごし、物心つく前からボールに慣れ親しんだ山口は、3歳で世田谷フットボールアカデミーに入団。小学1年生で同じく世田谷に拠点を置くクラブ、MIP FCに入った頃からサッカー選手としての将来を思い描き、4年生から本格的にプロになることを意識し始めたという。
ここまでの流れは、日本でプロ選手を目指す子どもたちと何ら変わりないだろう。だが、プロまでの道として海外に出る日本人の多くが欧州を選ぶ中、山口の場合は「アルゼンチンで挑戦する」という稀なルートを小学生の時に自分の意思で選択した。決断に至るまでの背景について、彼はこう語る。
「小学3年生の時、ボカ・ジャパンというサッカースクールが主催する海外キャンプに参加してスペインのマラガに行ったんですが、そこで対戦した子たちがとにかく巧くて。足技はもちろんのこと、パスも速いしポゼッションも巧いし。それまで僕は足だけを使うサッカーをしていたので衝撃的でした」
小学校の運動会では、100m徒競走で2位に20メートル以上の差をつけて観客を沸かすほどの俊足を誇り、幼少期から継続的に試合に出場することで高い競争性を養っていた山口だったが、それまで日本で体験していたものとはまったく異なるサッカーを知り、翌年再びボカ・ジャパンのキャンプに参加することを決意。この時の挑戦の舞台がアルゼンチンだった。
「ボカ・ジュニオルスやリーベルプレートといった強豪を含むいくつかのクラブのジュニアチームと対戦したのですが、全然歯が立ちませんでした。特に印象に残ったのがヌエバ・チカゴ(113年の歴史を持つアルゼンチン2部リーグのクラブ)で、当たりの強さとか9番のエゴイズムとか、僕がイメージしていた通りの“アルゼンチンのサッカー”をやっていたんです。アルゼンチンの選手たちは、巧いというよりも“強い”。もちろん身体的な強さもありますが、それだけの話ではなくて、点を取りたいという意欲とかエゴとか、とにかく1試合に懸ける思いの強さがまったく違う。そこで“日本にとどまっていたら自分は弱くなる”って思ったんです」
それは、小学4年生の少年が覚えた一種の危機感だった。「1つの試合に懸ける思いの強さ」とは、アルゼンチン人がサッカーに抱く感情、つまり“pasión”(情熱)のことだ。山口は、自分と同年代のアルゼンチン人選手たちが見せた得点への貪欲さや、ボールを最後まで諦めない執念から燃えたぎる情熱の炎を感じ、日本でプレーし続けてもその強さを体得することは不可能と気づいたのである。
MIP FCではハトマークフェアプレーカップ第36回東京都4年生サッカー大会決勝で同点弾を叩き込んで優勝に貢献、同大会優秀選手賞を受賞。その後FCトリアネーロ町田に移籍し、並行してマリノスサッカースクール・スペシャルクラスでもプレーするほど着実に成長していたが、山口はさらに上のレベルを求めてアルゼンチンに渡る決心を固めたのだった。
コロナ禍で活動停止…「最も危なかった時期」を乗り越えた「努力の日々」
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Profile
Chizuru de Garcia
1989年からブエノスアイレスに在住。1968年10月31日生まれ。清泉女子大学英語短期課程卒。幼少期から洋画・洋楽を愛し、78年ワールドカップでサッカーに目覚める。大学在学中から南米サッカー関連の情報を寄稿し始めて現在に至る。家族はウルグアイ人の夫と2人の娘。