今や「チームを勝たせる」ためには、テクニカルスタッフ全体の総合力が問われる時代。監督には自ら練習を指揮する「トレーナー」としての側面以上に、その分業化、多人数化した“チーム”を機能させる「オーガナイザー」的な役割が強く求められるようになって久しい。常に「人間」に 囲まれ、ピッチ内外で多忙 な“管理職”。そんな監督の未来を想像してみよう。
※『フットボリスタ第100号』より掲載。
子供の頃、未来社会を描いた絵には、必ず空飛ぶ車やビルの間に張り巡らされた透明なチューブの中を走る電車が描かれていたが、あれから50年経っても、そんな世界は訪れていない。50年待っても無理だろう。進化の方向が違ったからだ。物理的に「世界一周する」よりも電子通信ネットに没入して「世界一周した気になる」方が楽しく環境にもやさしいとなると、誰も車を飛ばそうとは思わない。我われ人間の志向が進化の方向を変えてしまったのだ。「未来の監督」にも同じようなことが起こるのではないか、と思っている。
選手が人間(的)である限り、監督も人間(的)であらざるを得ない
未来の監督の姿を想像してみよう。
絞り込まれた肉体をスタイリッシュな服に包み込んだ男が、眼鏡状のディスプレーをチラ見しつつ、身振り手振りをしながら耳に装着したインカムでしゃべり続けている。ディスプレーにはリアルタイム分析されたプレーが数字や図や記号化され流れている。マイクとイヤホンは選手たち、コーチ、スタンド上部のアナリストとの直接なやり取りを可能にし、そのごく一部はリーグを通じ世界中の視聴者へ届けられる。放送禁止用語の使用は当然、厳禁。クラブの顔であり商業的アイコンである監督には、腹を出さないこと、頭髪の脱落を阻止する等、容姿にも厳しい条件が課されている――というふうには、ならないのではないか。
10年後も、20年後も、50年後も、相変わらずジャージ姿のおっさんが、選手を怒鳴り付け、審判へ放送コードに乗らない卑語を吐き散らかしているのだろう、と私は思う。
なぜなら、サッカーは結局人間がやるもので、やらせる方の監督も人間でなくてはならないからだ。
選手は人間である。
となると、まず監督は選手の知的能力(欲求)の壁にぶつかる。自戒を込めて言えば『フットボリスタ』の記事を読みたいと思う選手、理解できる選手がどのくらいいるのだろう?たぶん、将来、監督を目指すようなほんの一握りが興味を示すだけではないか。……
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Profile
木村 浩嗣
編集者を経て94年にスペインへ。98年、99年と同国サッカー連盟の監督ライセンスを取得し少年チームを指導。06年の創刊時から務めた『footballista』編集長を15年7月に辞し、フリーに。17年にユース指導を休止する一方、映画関連の執筆に進出。グアルディオラ、イエロ、リージョ、パコ・へメス、ブトラゲーニョ、メンディリバル、セティエン、アベラルド、マルセリーノ、モンチ、エウセビオら一家言ある人へインタビュー経験多数。