1月1日に石川県能登地方が震度7の揺れに襲われた。ツエーゲン金沢のホームタウンである輪島市や珠洲市などでは広範囲で家屋倒壊や津波被害が確認された。1年でのJ2昇格を誓ったクラブは、2024シーズンにどんな戦いを見せるのか。金沢の番記者を務める村田亘記者がクラブ、そして選手の思いに迫る。あらためて問われるサッカークラブの意義とは……。3日間限定で特別無料公開。
アスルクラロ沼津との開幕戦は敵地で0-3の敗戦。昨年から続く連続未勝利記録は14に伸び、クラブ史上2番目の長さとなった。1年でのJ2復帰を目標に掲げるツエーゲン金沢だが、最下位からのスタートという困難な船出が待っていた。
非日常に直面する被災者に自分たちができることは?
しかし今年の金沢には、この厳しい現実を乗り越えていかなければならない理由がある。開幕の1週間前に行われた富山とのプレシーズンマッチ。能登半島地震の被災者も見守る中、キャプテンの畑尾大翔は、こう宣言した。
「僕たち選手は多くのファン・サポーター、ホームタウンのみなさまに支えられてプレーをしています。今度は僕たちが被災地のみなさまのサポーターになります」
今年の金沢には例年以上に背負うものが多い。1月10日、新シーズンに向けた全体練習は冷たい雨の中での黙祷から始まった。そのわずか9日前、雪のない穏やかな新春の風景を一変させた能登半島地震の犠牲者を悼むためだった。
被災地である石川県能登地方は、ここ十数年にわたって、たびたび震度6程度の揺れに見舞われていた。その1つである珠洲市は一昨年6月に最大震度6弱、昨年5月にも最大震度6強の揺れに襲われた。ホームタウンの子どもたちに手を差し伸べるため、昨年12月には金沢の選手とクラブスタッフも地元小学校を訪れて1年間貯めたベルマークを寄贈。サッカー教室を行い、一緒に給食を食べ、交流を深めていた。
そのわずか20日後に起こった令和6年能登半島地震。最大震度7の揺れは石川県内だけで1400名以上の人的被害、8万5000棟以上の建物被害をもたらした(2月28日14時現在)。クラブスタッフにすぐに同地の様子を聞いたという選手は「一時期は(1日に)水がコップの3分の1しかもらえないという話を聞いた」という状況に心を痛め、すぐに行きたいけれども「まだ邪魔になってしまうし、まだ何もできない」と葛藤する心の内を明かしてくれた。
同じ石川県内ながらツエーゲン金沢が拠点としている金沢市は震源から100キロメートルほど離れており、被害はクラブハウスの物品が多少壊れた程度で、練習場やスタジアムのピッチに地割れや液状化が起こることもなかった。
チームは1月10日に始動。すぐに宮崎でのキャンプに出発したが、それまでの4日間も大きな余震に見舞われることなく、日常と変わらない練習を続けた。しかし、上空には被災地に向かう自衛隊や報道陣のヘリコプターや輸送機が頻繁に行き来するなど、すぐ傍に非日常の世界を必死に生き抜こうとしている人々がいることを示していた。
全体練習が始まった初日、石川県出身の豊田陽平は軽々に発言することすら憚られるという面持ちで、慎重に言葉を選びながら次のように発言した。
「僕たち石川県のプロスポーツチームには必ず何かできることがあると思っていますが、今すぐに被災された方々にとっての光となることは難しいし、現段階では光など見える状況ではないと思います。そういう状況の中で僕らが『スポーツで勇気を与えます』と大きく言うよりも、短期的ではなくて長期的に姿勢や思いが伝わるように、サッカーを通して、スポーツを通してやっていきたいです。とにかくいまは被災された方は一筋の光さえ見えていないと思います。その中で僕らはサッカーをさせていただいているので、そこを十分に汲み取る必要があります。それは石川県民のJリーガーはもちろんそうですが、金沢で一緒に戦うと決めた選手が本当に一つになって、J3優勝、また復興に向けて、何かいい姿を見せられるようにやっていきたいなと思っています」
被災地のプロスポーツクラブとして、今後も長く被災者と共に歩んでいくことが求められることとなった今年。新たにゼネラルマネージャーに就任したのは、奇しくも1995年の阪神・淡路大震災を自らも経験し、その年にヴィッセル神戸に移籍して戦った和田昌裕だった。その和田GMも当時を思い出しながら、次のように語った。……
Profile
村田亘
編集プロダクション勤務を経て2013年にフリーに。エルゴラッソの記者、編集部勤務を経て故郷の石川県にUターン。2019年からツエーゲン金沢を中心に取材を続ける。