ヨーロッパ3カ国5クラブでプレーし、W杯を4度経験した川島永嗣が、ジュビロ磐田の背番号1としてJ1の舞台に帰ってきた。40歳のGKが母国で14年ぶりに迎える新シーズン開幕を前に、27歳でブリュッセルの空港に着いた瞬間に立ち会っていた小川由紀子さんが、それから13年間の欧州キャリアを当時の本人、コーチやチームメイトらの談話を交えて振り返る。
後編はベルギー、フランスの地で出会った人みんなから愛され、サッカーに取り組む姿勢においてもチームの面々に好影響を与えて絶大な尊敬を得た日本人が、異国のピッチ、そして人々の心に残したもの。
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地元のファンやメディアにとっても大切な存在に
加入する先々において、川島永嗣はその「プロフェッショナリズム」で周囲をうならせてきた。
リールセで共闘したベルギー人の左SBゴンザグ・バンドーレンは、「彼は自分が選手人生で出会った中で、最もプロフェッショナルな選手」だと評している。
リールセといえば、選手のほとんどが電車で15分ほどで行ける大都市アントワープに居を構えていたが、川島は朝の渋滞の可能性を懸念して、特に何もない小さな住宅街であるリールセに家を借りることにこだわった。そんなところにも、彼のプロ気質が表れている。
川島が入団した2010年当時、リールセは登録選手25人のうち20人が外国人という多国籍軍だった。よってクラブ内の公用語も、この地方で話されるフラマン語(オランダ語の派生語)ではなく英語だったが、川島は「地元の人たちと彼らの言葉で交流したい」という思いから、ベルギーの2つの公用語(フラマン語とフランス語)の習得にも励んだ。
彼のそういった姿勢は、腰かけ的な外国人選手ではなく、「このクラブの一員になりたい」というメッセージとして伝わり、川島はクラブを取り巻く人々やファンにとって、家族のように大切な存在となっていった。スタンダール・リエージュに移籍してからも、リールセに凱旋するたびに、彼はファンからスタンディングオベーションで迎えられている。
また、現地メディアも川島には一目置いていた。負け試合の後はどんな選手でも多少は不機嫌になるものだが、感情を乱すことなく、英語やフランス語で取材に応じる点においても、川島は地元のジャーナリストたちから抜群の人気を勝ち得ていた。
日本代表GKの海外挑戦ということで、当時は毎試合、数多くの日本人記者も現地で彼を追っていた。これはスタンダールの番記者から聞いた話だが、そんな様子を見てある日川島に、大変ではないかと聞いたところ、「まったく迷惑なんかじゃないですよ。むしろヨーロッパでプレーしている僕のニュースを日本に伝えてもらえるのはありがたい。ジャーナリストと話すのはいつだってうれしいし、もちろん仕事の一部でもありますから」という答えを聞いて感心したそうだ。
歴代のGKコーチがエイジに感じた「強さ」と「生きる喜び」
彼を指導した歴代のGKコーチから聞かれる“エイジ評”もみな似通っている。特筆されるのは、強靭なメンタリティ、勤勉さ、己に厳しく常に自らに挑戦を課す姿勢。スタンダール時代のGKコーチ、エリック・デュルーもその一人だった。……
Profile
小川 由紀子
ブリティッシュロックに浸りたくて92年に渡英。96年より取材活動を始める。その年のEUROでイングランドが敗退したウェンブリーでの瞬間はいまだに胸が痛い思い出。その後パリに引っ越し、F1、自転車、バスケなどにも幅を広げつつ、フェロー諸島やブルネイ、マルタといった小国を中心に43カ国でサッカーを見て歩く。地味な話題に興味をそそられがちで、超遅咲きのジャズピアニストを志しているが、万年ビギナー。