林卓人が下田崇から受け継いだ「広島GKの哲学」。コーチとしてバトンを次代へ託す
【短期集中連載】2023引退選手の記憶#1:林卓人
2023シーズン限りでピッチを去る選手たちがいる。元日本代表のスター選手、サポーターに愛されたワンクラブマン、様々なチームを渡り歩いたベテラン選手、若くしてユニフォームを脱ぐことを決断した者……それぞれが歩んだキャリアに光を当てる。
第1回は、Jリーグ通算511試合出場を果たしたサンフレッチェ広島のレジェンド、林卓人。41歳までプレーを続けた男が受け継いできた「広島GKの哲学」を掘り下げる。
サンフレッチェ広島史上、もっとも練習量が多かった選手である。もちろん独断と偏見であり、定量的なエビデンスはない。だが、彼が加入した2001年からずっと、練習に練習を重ねてきたことは事実であり、2014年に広島に戻ってきた32歳の時も、そして引退した41歳のシーズン(2023年)も、林卓人はとにかく練習に練習を重ねた。
汗にまみれた。シャツは泥まみれになった。ピッチに誰もいなくなっても、彼は自分自身の肉体を動かし続けた。話を聞きたいと待っていても、なかなかクラブハウスに戻ってこない。ようやくトレーニングを終えて戻ってきても、「ゼエ、ゼエ」と肩で息をし続け、ほほに芝がベッタリと張りついている状況の彼に、取材をするのも憚られた。そんなことを感じたのは、林と青山敏弘の2人だけだ。
どうして、そこまでトレーニングを彼は続けたのだろう。
「こんな人がいるのか」下田崇から受けた衝撃
高校時代の彼は、年代別代表の常連というわけではなかった。だが、金光大阪高時代に頭角を現し、2000年にはC大阪の強化選手に。決して全国にその名を知らしめていたわけではなかったが、まさに「知る人ぞ知る」存在だった。
その当時のことを覚えている人がいる。足立修前強化部長である。
「あの頃、僕は神戸のスカウトをやっていましたが、卓人のことはよく覚えていますね。広島のスカウトをやっていた織田(秀和現熊本GM)さんと『金光の林はいいね』と言い合っていたものです。あの年代でいえば、東海大五高からC大阪に入った多田大介。浦和東の川島永嗣。高体連のGKといえば、林を含めたこの3人が群を抜いていた。彼の1つ上には岩丸史也や藤ヶ谷陽介などもいて、あの世代のGKは優れた才能が出てきていたんです。
林はスケールが大きく、キックもとてもいい。確かに荒削りだったけれど大器。そういう印象が強かった。非凡な才能を持っていたことは間違いない」
林自身、自分の力には自信を持っていたはずである。だが、当時の広島にはとんでもないGKがいた。現日本代表GKコーチの下田崇だ。
同世代に楢崎正剛と川口能活という日本サッカーの歴史に名を刻むGKがいたため、下田はその実力に見合う評価を受けてはいないのが実状だ。だが、「いや、彼こそあの世代のナンバーワン」と称賛する人も決して少なくない。もし、2002年の降格がなかったら、ジーコジャパンの正GKは下田になった可能性もある。2003年、下田はJ2でプレーしていたのに、ジーコは彼を代表に招集していた。異例の抜擢だった。
「こんな人がいるのか」
初めて下田のプレーを間近に見た時、林は驚愕した。下田の練習を初めて見た林の父も、同じ想いを持っていたという。
「あの人は、バケモンか。倒れたと思ったらもう起きて、ボールを取っている。スピードが全然違う。ウチの息子は、とんでもない世界に足を踏み入れようとしているのか」
「サッカーでは素人」(林)である父が、高校生で広島の練習に参加した息子と一緒に衝撃を受けた。これが、下田崇という男の現実だった。
「シモさんを超えないと試合に出られない。できるのか。いや、やらないとダメなんだ」
切実すぎるその想いが、林卓人をトレーニングに打ち込ませた。
同僚からの評価は「?」だった高卒ルーキー
実は若き林の才能について、織田秀和強化部長は高く評価してはいたが、当時の広島のチームメイトには特段のインパクトを与えていない。
例えば明治大から林と同じ年(2001年)に加入した梅田直哉は、当時の印象をこう語っている。
「卓人は、確かに背は高かったけれど、まだ身体もできていなかったし、ヒョロってした感じの高校生でしたね。当時はとにかくシモさんが凄かったから、その印象しか残っていない。ただ、負けん気は強かったし、キックもよかった。サテライトリーグの時などは、アイツが『僕がボールを持ったら、このポジションに動いてください。そうしたら、ウメさんの胸に蹴りますから』と言っていて、その通りに蹴ってきたから」
また1年先輩の森﨑和幸CRMは、林について「プロの世界でやるには厳しいかも」と感じていたという。
「あの当時はシモさんが絶対的存在だったし、そして凄すぎた。僕にとってのGKの基準がシモさんのレベルだったので、卓人はプロでやるには難しいかもと感じていたんです」
当時、日本代表のレベルにあった下田と高卒1年目の林を比較するのは暴論ではあるが、そう思わせてしまうほどの差は、正直あった。……
Profile
中野 和也
1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。