バーミンガムを2度も救ったジュード・ベリンガム。「君が帰ってくるまで空けておく」永久欠番22の相思相愛は続く
10月28日に開催されたリーガ第11節、自身初出場の“エル・クラシコ”で宿敵バルセロナに2得点を叩き込んで劇的逆転勝利を手繰り寄せ、その翌々日には2023年のコパ・トロフィーを受賞したレアル・マドリーのジュード・ベリンガム。今を輝く20歳のイングランド代表MFは地元バーミンガムでどのように育ったのか。7歳から17歳まで10年間を過ごしたバーミンガム・シティでの物語を、現地で同クラブを中心にイングランドサッカーを追いかけるEFLから見るフットボール氏に教えてもらおう。
「『君が帰ってくるまで22番は空けておく』と言われた時は、(驚いた顔で)『え……?』という感じでした。確かに良い1年は過ごせたけど、どう考えても永久欠番になるほどのものではありませんでしたから。『本当にそんなことをして大丈夫なのかな?』と。でも、クラブの状況は理解できましたからね」
“若手版バロンドール”ことコパ・トロフィーを受賞した10月30日、仏紙『レキップ』によるインタビューで、ジュード・ベリンガムはコロナ禍真っ只中の2020年夏に下した苦渋の決断について初めて沈黙を破った。
それは彼が7歳から籍を置き、現在もいちサポーターとして心の底から応援しているバーミンガム・シティからドルトムントへと去っていった時のこと。16歳にして公式戦44試合に出場したデビューシーズン後、彼が着た背番号22のシャツは永遠に額縁で飾られることになった。
その2年後にカタールW杯でイングランド代表の中心を担い、さらにその1年後にはドルトムントからレアル・マドリーに総額1億ポンドを超える移籍金で迎え入れられ、自身初のエル・クラシコで2ゴールを叩き出すまでになる彼の将来を知らなかった人々は、迷走を続ける英2部クラブが下した奇妙な判断を嘲笑した。当時は大衆にとって「有望株の1人」でしかなく、「永久欠番」というヘッドライン映えする言葉は、クラブがチャンピオンシップ20位に終わった恥ずべき19-20シーズンを隠蔽するための白々しいプロパガンダと見做されたが、今や冷笑を浴びせられているのはその才能を疑っていた彼らの方だろう。弱冠20歳の若者は今や「21歳以下の世界最優秀選手」として、欧州フットボールシーンにジュードの名を轟かせている。
しかしバーミンガム・シティのファンは、永久欠番化の理由がそれですらないことを知っている。3年前、大粒の涙とともにドイツへと去った彼が残した最大の功績は、「クラブの存立」以外の何物でもなかったからだ。
憧れの「4+8+10番」が誕生した下部組織時代
「最初のヒーローはセブ・ラーション、クレイグ・ガードナー、リー・ボウヤーといった2011年にバーミンガムがカーリングカップ(現カラバオカップ)に優勝したくらいの時の選手たちでした。その後(選手としての)プレーにのめり込むようになってからはまず父が最も重要な存在で、次に(ウェイン・)ルーニーや(スティーブン・)ジェラードといったイングランド代表の選手に憧れるようになりました。フットボールをもっと見るようになったのはその後でした。ある日父が偽物の(ジネディーヌ・)ジダンのユニフォームを買ってたんです。それを家でもよく着回している様子を見て『それは誰の?』と聞いたら、『YouTubeで見てみろ』と。一度プレー集を見始めると、もう止まらなくなってしまいました」(前述した『レキップ』のインタビューより)
ジュードの来歴、あるいは彼という人間を語る上で避けては通れないのが、その両親をはじめとするベリンガム家の存在だ。
父マークは警官として働く傍ら、セミプロレベルで900試合以上に出場。ストライカーとして700ゴール以上を決め「ノンリーグ(5部以下)のペレ」として広く知られる存在だった。母デニスも人事関係の仕事に就く共働き家庭で、決して富裕層が集まる地域ではないエリアに居を構えていたことも相まって、ジュードは両親とその生育環境から物事に対して謙虚な姿勢で向き合う習慣を学んだ。
そんな幼少期のジュードにとって、プロサッカー選手は必ずしも「夢の職業」というわけではなかった。特段TV中継などを見るわけでもなく、彼にとってのフットボールといえばもっぱら父が出場する試合を見に行くことだけ。マークは興味を持たせるために定期的にボールを蹴らせていたが、ジュード自身はずっと乗り気ではなかったという。
しかしある日、「突然教えられたことがうまくできた」という成功体験をきっかけにサッカーを楽しめるようになると、加入した地元のアマチュアチームでもすぐに目立った活躍を見せ、バーミンガムのスカウトから声がかかることになる。ちょうどそのトップチームの試合にほぼ毎週「ブルーノーズ」としてジュードは足を運ぶようになっていた。
「バーミンガム・シティの真のファンは『ブルーノーズ』と呼ばれています。私もブルーノーズ、あなたもブルーノーズ、バーミンガムの右側で生まれた人はみんなブルーノーズなんです。家からスタジアムに向かう時、誰かが鼻の先を青く塗った顔の形をした岩の横を必ず通り過ぎます。いつもそこを通っていた記憶はずっと忘れません」(昨年12月、W杯期間中に出演したラジオ局『トークスポート』の番組で)
そしてアカデミーの門を叩いたジュードは同年代で傑出したパフォーマンスを見せ、飛び級を重ねながら注目を集めていく。12歳を迎えた2015年時点で早くも当時のトップチーム監督ギャリー・ラウエットからその動向を気にかけられていたほどで、オフィスへ定期的に招かれては「クラブがいかにジュードを重視しているか」を聞かされていた。その頃にはもう欧州中から熱視線を浴びる超逸材の1人として知られていたからだ。
しかしベリンガム家が外からの誘惑に惑わされることはなかった。当時アカデミーで統括職を務めていたクリスティアン・スピークマンやマイク・ドッズといった面々は日常的なコミュニケーションを重ねる中で選手一家とも深い関係を築き、詳細に至る部分までジュードの成長プランを検討。また本人にしても「心のクラブでプレーする」という目標が揺るがぬものだったために、移籍を望む必要がなかった。
その強い絆を物語るエピソードがある。ジュードが12歳のある日、今でも「最大の恩師」と公言するドッズとの間で、「今後目指す選手像」を話し合う時間が設けられた。ジュードは他の子どもよろしく「10番になりたいです」と答えたが、ドッズから返ってきたのは「いや、22番になれ」という言葉だった。思わず聞き返すとその真意は期待の表れだった。
「中盤の底で汚れ役を買って出る4番、ボックス・トゥ・ボックスでチームのギアを上げる8番、そして得点を決めたり好機を演出する10番。君はこれらのプレーを1人で全部やれる選手になれる。10番“だけ”なんてもったいないよ」
MFとしての究極形とも言える「4+8+10番」という目標に、ジュードが持つバーミンガムサポーターとしてのクラブ愛と「唯一無二の存在(オリジナル)を目指す」選手としての向上心の両方が揺さぶられた。この日、練習場から家に帰る車に乗ってきた時の息子の興奮した様子を、デニスはいまだに忘れることができないという。ジュードがトップチームの22番を夢見始めた瞬間だった。
予感があったホームデビュー戦での史上最年少得点
それから4年後。ジュードは早くも2019-20シーズンに向けたトップチームのプレシーズン合宿に帯同することになった。
前季でギャリー・モンク監督の下、リーグ戦22ゴールのシェイ・アダムズ(現サウサンプトン)らを擁したバーミンガムはP&S(プロフィタビリティ&サスティナビリティ)ルール(ファインシャル・フェアプレーと同様のプレミアリーグとEFLが導入している財務規則)違反による勝ち点9剥奪というイングランド史上初の経営陣による大失態があったにもかかわらず、結果的に2016年から2023年まで居座った悪名高い前オーナーの体制では最高順位タイの17位に入った。
にもかかわらず、モンクはシーズン終了後1カ月足らずで解任の憂き目に遭っている。その一因と言われているのがジュードの将来をめぐる政治だ。……
Profile
EFLから見るフットボール
1996年生まれ。高校時代にEFL(英2、3、4部)についての発信活動を開始し、社会学的な視点やUnderlying Dataを用いた独自の角度を意識しながら、「世界最高の下部リーグ」と信じるEFLの幅広い魅力を伝えるべく執筆を行う。小学5年生からのバーミンガムファンで、2023-24シーズンには1年間現地に移住しカップ戦も含めた全試合観戦を達成し、クラブが選ぶ同季の年間最優秀サポーター賞を受賞した。X:@Japanesethe72