カタールW杯ラウンド16のPK戦で日本代表の前に立ち塞がったクロアチア代表の守護神、ドミニク・リバコビッチのフェネルバフチェ移籍が決まった。W杯以降、常に移籍の噂が絶えなかったディナモ・ザグレブのキャプテンだが、決まったのは5大リーグではないトルコ、しかも移籍金は1000万ユーロに満たなかった。欧州でも屈指の実力者が直面した複雑な事情を長束恭行氏が解説する。
イスタンブールへと旅立つ前日の8月23日。ディナモ・ザグレブの守護神ドミニク・リバコビッチは、7年間通い続けたドレッシングルームに感傷的な想いで足を踏み入れた。ELプレーオフ第1レグのスパルタ・プラハを控えるチームメイトに対し、お別れを告げる彼の声は激しく震えていた。
「この瞬間に何かを口に出して言うのは本当に難しい……。素晴らしい月日を過ごせたことを君たちに感謝している。僕にとってはディナモがすべて。君たちでディナモを守ってくれ! 明日の試合で全力を出して勝利してくれることが僕の大きな願い。だって君たちは最高なんだから」
彼の言葉がチームを衝き動かし、翌日の試合では本拠地シュタディオン・マクシミールで3-1の勝利。リバコビッチはフェネルバフチェと5年契約を結び、移籍を巡る流言飛語にもようやく終止符が打たれたわけだが、ディナモにぽっかりと穴が空いてしまったのは否めない。カタールW杯でも大活躍したクロアチア代表の正GKであり、ディナモのキャプテンを務めるチームシンボルを一晩で失ったのだから。財政面でも彼の実力と名声に見合う移籍金をディナモがちゃんと手にしたとは言い難い。それでもリバコビッチにはディナモを「卒業」しなければならない理由があった。
2016年からディナモの栄光を支え続けた守護神
NKザグレブで頭角を現していた20歳のGKリバコビッチを、ディナモが移籍金60万ユーロで獲得したのは2015年夏のこと。そのまま1シーズンはNKザグレブにローンで留め置かれて経験を積み、16-17シーズンからディナモに正式加入。しかし、合宿中の指骨折で出遅れた上、世代別代表の常連だったアドリアン・シェンペル(現在はセリエBのコモ所属)がプロジェクトの一環で正GKに据えられたために控えに甘んじた。ところが、18歳のシェンペルは重圧に耐えられずミスを繰り返したことで、第11節のハイデュク・スプリトとのダービーマッチでリバコビッチにお鉢が回る。宿敵相手に彼はクリーンシートを達成すると、半月後のCLグループステージのセビージャ戦でも好セーブを連発。大舞台でも動じない精神力と砂場で鍛えた瞬発力でレギュラーをあっさりと奪い取った。
同郷(ダルマチア地方のザダル市)のGKダニエル・スバシッチを敬愛し、ロシアW杯では先輩を支える第3GKとして準優勝を経験。そのスバシッチが後進に道を譲るべく大会後に代表引退を表明すると、ロブレ・カリニッチとのレギュラー争いをリバコビッチが早くに制した。ディナモでは18-19シーズンに開幕戦からの連続無失点記録「535分」のクラブレコードを作り、ELではクラブの念願だった49年ぶりの「欧州年越し」を実現。少年時代にGKをやり始めたのはイケル・カシージャスに憧れたのがきっかけだが、そのカシージャスが「(24歳のリバコビッチは)興味深い」とSNSで投稿したのはまさにこの頃だ。
リバコビッチに具体的な移籍話が湧いたのは、2019年夏に移籍金700万ユーロの正式オファーを提示したモンペリエが最初だった。その直後にディナモとクラブ最高給(60万ユーロ)で2024年までの契約を更新したリバコビッチは、このように残留理由を述べている。……
Profile
長束 恭行
1973年生まれ。1997年、現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて銀行を退職。2001年からは10年間のザグレブ生活を通して旧ユーゴ諸国のサッカーを追った。2011年から4年間はリトアニアを拠点に東欧諸国を取材。取材レポートを一冊にまとめた『東欧サッカークロニクル』(カンゼン)では2018年度ミズノスポーツライター優秀賞を受賞した。近著に『もえるバトレニ モドリッチと仲間たちの夢のカタール大冒険譚』(小社刊)。