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すべては小嶺先生のリフティングから始まった。ギラヴァンツ北九州・小林伸二スポーツダイレクターインタビュー(前編)

2023.06.19

自身の代名詞とも言うべき『昇格請負人』という肩書は伊達ではない。大分トリニータに始まり、モンテディオ山形、徳島ヴォルティス、清水エスパルス、そしてギラヴァンツ北九州と、5つのクラブに昇格という名の歓喜をもたらしてきたのだから。だが、この男の携える信念を知るためには、それ以前に辿ってきたキャリアを理解する必要がある。初めてサッカーと出会って早50年。究極の“サッカー小僧”・小林伸二がその半生を振り返るインタビュー。前編は永遠の恩師・小嶺忠敏先生との出会いから、日本一に輝いた島原商業高校時代、マツダへの入社までを語ってもらう。

サッカーとの出会いは小嶺先生のサッカースクールだった!

――ご出身は長崎県南高来郡国見町ですよね。伸二さんが幼少の頃は、まだ国見もサッカーの街ではなかったですか?

 「サッカーの街ではありません。自分が小学校5年生の頃に、小嶺(忠敏)先生が月に1,2回サッカースクールをやってくれたことで、サッカーに出会ったんです。小学校にサッカーチームはなかったですけど、たまたま中学校1年生の担任の先生がサッカー部の顧問で、『サッカー部に入れ』と言われて入りました。のちに入った島原商業のサッカー部の中でも、長距離が一番速い人は国見町出身だったんです。自分も学年で一番でしたし、山田先生(山田耕介・前橋育英高校監督)も一番で、持久力だけは国見出身者はトップクラスでした。そういうふうに一生懸命やる人が多い街だったんですよね。中学の時は自分たちでメニューを考えて真面目に練習していました。2年生の時は1つ上のキャプテンの山田先生が笛を吹いてトレーニングしていましたね(笑)」

――小嶺先生にお会いしたサッカースクールの前は、サッカーとはほとんど関わりがなかったんですか?

 「はい。多比良小学校はソフトボールが盛んで、僕もエースでした。勉強は普通でしたけど、短距離も長距離も1番だったんです。球技や走ることはかなりできたと思いますね」

――そうすると、小嶺先生のインパクトが相当大きかったんですね

 「そうですね。小嶺先生がリフティングをしたり、ボールを背中に乗せたりするのが衝撃的で、『ほえ~』って。それまではサッカーが周囲にないわけですから。サッカースクールは5年生の時に何回かあって、6年生の時にもありましたね」

――サッカーに興味がなかったはずなのに、何でそのサッカースクールに行ったんですか?

 「何で行ったんでしょうね(笑)。もともとスポーツは好きだから行ってみようと思ったのかなあ。中学も家にラケットがあったから、『テニスをやろうかな』と思っていたぐらいで、『卓球部も面白いかも』とか考えていましたね(笑)。1つ下には勝矢寿延くんもいましたよ。今の子みたいに『小学校からサッカーを頑張ってきました』という感じではなかったです」

――国見中でサッカーを始めてからは、すぐにのめり込んでいったんですか?

 「1年生の頃は夏休みになったら、『家が忙しい』と言いながら魚釣りに行ってましたよ(笑)。1年生は球拾いばかりなんです。2年生になったらレギュラーで試合に出られたので、楽しくなりました。3年生は自分たちの代なので、県で優勝しようと目標を立てて、郡では優勝して、県でもNBC杯という大会で決勝ぐらいまで行きましたね」

名門・島原商業で1年生から10番を背負う

――そこから島原商業高校にはどういう経緯で入学されたんですか?

 「ウチの実家が菓子店をやっていたので、習字とそろばんは小学校の頃から習っていたんです。商業高校に行くとそろばん1級ぐらいまで取れるので、もともと母から『島商に行くのよ』みたいなことは言われていた中で、小嶺先生が誘ってくれたんですよね。中学3年生の時に家まで来てくれて『島商はどうだ?』と。もともと島商に行くこと自体は考えていたわけで、『え?オレを誘ってくれるの?』と。小嶺先生が来てくれたことで『ああ、高校でもサッカーをやれるんだ』って思ったんです。

 嬉しかったのは入学前に静岡遠征に連れて行ってもらったんですよ。『え?まだ高校に入っていないのに、遠征に行けるの?』って(笑)。それはビックリしました。当時は県大会がある時に、長崎まで行って泊まるのも嬉しかったのに、『静岡に行くの?』って。一気にエリアが広くなった感じでした。その遠征は三保の松原あたりに泊まって、雨がひどかったのと、東海大一と試合をしたのは覚えていますね」

――入学後はすぐにレギュラーになったんですか?

 「そうなんですよ。インターハイ予選でいきなり10番をもらって、センターフォワードをやったんです。県の決勝戦は自分が全然点を獲れなくて、延長に入って涙を流しながらプレーしていたら、たまたま自分が決勝ゴールを挙げて勝ちました。結局、インターハイと選手権で6回も全国大会に出ましたよ。1年のインターハイは新潟で、ベスト8で帝京に2-3で負けたんです」

――へえ。帝京とやっているんですね。

 「たぶん佐々木則夫さんが3年生でキャプテンだったと思います。0-3から2-3まで追い上げて、あれはあと5分あったら引っ繰り返せていたな(笑)。そうやって自分のサッカーのエリアがどんどん広がっていく中で、僕が2年の時に山田先生が高校選抜に選ばれて、ヨーロッパに行ったんですよ。

 『サッカーするとヨーロッパに行けるんだ!オレも行ってみたいなあ』と思って、『絶対に高校選抜に選ばれたい』ということを3年生になる時に心に決めて、実際に選ばれたので初めて海外に行ったんです。あの頃に世界がサッカーでどんどん広がっていく感覚がありました。まだヨーロッパなんて頻繁に行ける時代ではなかったので、『サッカーっていいなあ』と思いましたね」

――1年生の選手権は初戦で習志野高校にPK戦で負けています。この年から首都圏開催になったわけですが、やっぱり華やかな大会でしたか?

 「華やかでしたよ。1年生は僕を含めて2人が遠征メンバーでした。勝てると思っていたのにPK負けだったので、『ああ、負けちゃったなあ』と思っていたら、旅館で帰りの荷作りをしていた時に、小嶺先生が『こんな1回戦で負けるチームにならんように来年は頑張れよ』と言われたのは覚えています(笑)。静岡学園と浦和南の決勝は長崎に帰って、みんなで学校の視聴覚室で観戦しましたね」

インターハイ全国制覇の陰には“焼き肉効果”が!

――2年生は結果的にインターハイで全国優勝する年ですね。

 「2年生になったら、1年生とは違って身体も安定してきて、動けるようになって、チームも強くなってきている手応えもありましたし、岡山インターハイは暑かったですけど、みんなタフで上手かったんですよね。島商はベスト8をいつも乗り越えられなかった中で、準々決勝で静岡の自動車工業に1-0で勝ったら、今度は4強からはチームが負ける気がしない雰囲気になっていきました。山田先生はハードワークができましたし、いろいろな形の粒ぞろいの先輩が揃っていて、2年生が4,5人出ていて、バランスも良かったんですよ。ただ、忘れられないのは夕方の4時ぐらいに、小嶺先生が焼き肉を食べに連れて行くんです。もちろん『やった!焼き肉だ!』と思うんですけど、また6時半ぐらいに宿舎で夕飯を食べないといけないんです」

小林伸二の恩師である小嶺忠敏。写真は長崎総合科学大学附属高校時代に青森山田と対戦した96回全国高校サッカー選手権で

――ああ、焼き肉と夕飯は別なんですね(笑)

 「別ですよ。朝10時からの試合だったら、試合が終わって昼ご飯を食べて、4時ぐらいに焼き肉に行って、また夕飯を食べるのが毎日続くんです。4人1組で焼き肉を食べなくてはいけなくて、最初は『美味しい、美味しい』と食べていましたけど、それが毎日なんですよ(笑)。でも、あれがみんなをタフに戦わせる理由だったかもしれないですね。ベスト8からは相手がへばる中で、自分たちがどんどん強くなるような感じでした」

――準決勝と決勝はどちらも伸二さんが2点獲っています。凄くないですか?

 「準決勝はなかなか点が入らなくて、山口高校と延長まで行ったんです。結局、延長で4点獲って、5-1で勝ったんですけど、最後は馬力の違いがありましたね。佐賀商業との決勝で2点獲ったのはちゃんと覚えていますよ。まだ2年生だったので、周りの先輩に上手に活躍させてもらいました。でも、自分もタフだったので、我ながらよく走っていたと思います」

――実際に日本一になってみて、どういう感慨がありましたか?

 「2年になった時に、『あれ?1年の時とは違うな』と思ったんです。2年生の新人戦でやたら強かったんですよ。それで静岡に遠征に行っても結構強豪とも互角に戦えたので、それで視界が開けましたね。厳しい戦いをすると、強くなっていくんだなということを実感しました。でも、冬の選手権に向けては毎週のようにメディアが来ていた中で、小嶺先生は『きちっとやれ』ということをおっしゃっていました。服装が乱れたり、謙虚じゃなかったりすることを、凄く指摘されていましたね。『勝って兜の緒を締めよ』と」

――選手権は準々決勝で四日市中央工業高校に負けています。

 「選手権の大会前に国士舘大に練習試合に行ったんですけど、雨が降って凄く寒くて、それから何人かが日替わりで熱を出していくんです。それで四中工に0-3で負けたんですよね。実は試合の途中でPKがあったんですけど、僕が蹴らされて、GKに止められたんです(笑)。四中工は樋口兄弟の士郎さんが3年生で、靖洋くんが1年生にいて、僕らは彼らがそんなに強いと思っていなかったんです。もうその上を見てしまっていたんですよね。ただ、バックの先輩もケガをしたり、同級生も熱が出て試合に出られなかったり、ケガと病気でメンバーが変わり過ぎて、負けてしまいました。3年生の時は勝てなかったなあ」

――インターハイが初戦で大垣工業に敗退。選手権は2回戦で八千代に負けています。

 「インターハイは土のグラウンドで、ウチのGKがバウンドを読み違えて失点して、そのまま0-1で負けました。ユース代表にも選ばれていたGKだったんですけどね。優勝旗を返したのにすぐに負けたので、もう長崎に帰るのが辛くてね。『どうするんだよ、これ。帰れねえよ……』って。選手権も関塚(隆)くんのいた八千代にPK戦で負けました。国体では千葉県に勝っていたのに、選手権では千葉県代表に負けたと。その時のPK戦は3人目で決めましたよ(笑)。2年生で日本一を経験している選手が4,5人残っていたので、バランス的にも良くて小嶺先生も期待されていたと思います。選手は揃っていたんですけどね」

小嶺先生から学んだ「サッカーが大好きだ」という情熱

――中高の先輩に当たる山田先生は、伸二さんにとってどういう存在ですか?

 「中学の時の山田先生は、サッカーの本を練習に持ってきて『リベロというのはこういう仕事をするんだ』ということを、ラインを引いてみんなに見せるような人でした。メッチャ頑張り屋で、とにかく努力家でしたね。3年生の時はキャプテンで、チームを引っ張ってくれる人でした。やっぱり情熱があるんですよ。高校3年間で見た小嶺先生というお手本があるわけで、我々は一番の近道はサッカーと向き合うことだとわかっていますからね。それこそ山田先生もメチャメチャ上手かったわけではないので、『ちゃんとやれば上手くなるんだ。結果が出るんだ』というのは、ご自身の実体験でもあると思うんです。指導者になった時に揺るがずやっていけば結果が出て、結果が出ても続けていくというか、ブレずにきっちりやっていったことが、前橋育英が伝統校になった理由じゃないですか」

――やはり山田先生も小嶺先生の影響を色濃く受けていると。

 「だって、島商の時は選手権が終わって長崎に帰ったら、次の日から練習ですからね(笑)。夏は1日しか休みがなかったですし、台風の時も全校生徒は帰れと言われているのに、練習がありましたから。小嶺先生が『自分がマイクロバスで送っていくから大丈夫だ』と。そうしたら台風の方が逸れていって、『ほら見ろ。オレの読み勝ちだ』と(笑)。凄い先生ですよ。

 週末はバスに乗って熊本に行ったり、福岡に行ったりして、それこそ会場に着いたらすぐに試合なんです。こっちは身体が動かないんですけど、そんな経験なんてなかなかできないじゃないですか。でも、そういうことも山田先生は経験していて、やっぱりいろいろなことを勉強していくにしても、その幹には経験してきたものがあるわけで、そこに新しいサッカー観をプラスしていくから、何しろ幹が大きいんですよね。そこがブレないんです。肝は『子どもが欲しがる練習をやる』ということですよ」

――改めて小嶺先生の一番凄いところはどういうところですか?

 「やっぱり情熱ですね。ブレないんです。勉強熱心ですし、現場主義というか、とにかくどこへでも行くんです。人から聞くのではなくて、行けるのであれば、そこに行くんですよ。そのパワーは凄いです。サッカーが大好きだという揺るがない部分と、新しいものを吸収しようとする姿勢、そういう探究心は強い人でした。

 僕が大学が休みの時に実家に帰ると『小嶺先生が呼んでるよ』と親が言うんです。僕は一切ご本人に言っていないのに、小嶺先生は僕が帰ってくるはずだとわかっていたんでしょう。もちろん呼ばれたらすぐに行かないといけないですよね(笑)。あの頃から自分は練習の指導をやらせてもらったりする経験が、他の人に比べてかなり多い大学生だったと思います。当時はよく国見高校に行って、指導したり、一緒に練習したりしていましたね」

――初めての指導は大学生の頃の国見高校だったんですね。

 「そうですね。もともと大学を出たら先生になりたかったんです。日本リーグでサッカーをするとも思っていなかったので。でも、大学3年生ぐらいになったら実業団の方で声を掛けられて、『そういうのもあるんだな』って。関東からも関西からもオファーがあって、『三菱重工に来れば、将来は長崎の三菱重工に帰れるんじゃないか』とか、そんなことも言ってもらったんですけど、マツダに行って本当に良かったと思います。

 後々聞いたら、大阪商業大の上田(亮三郎)先生は今西(和男)さんと寮で一緒の部屋だったんですって。上田先生は愛媛大学から東京教育大(現・筑波大)に編入されているので、今西さんより2つ年上なんですけど、一緒に時間を過ごしたと。その今西さんが当時のマツダの総監督で、監督の二村(昭雄)さんに勧誘してもらいました。自分は小嶺先生、上田先生、今西さん、二村さんと、指導者には恵まれましたね」

実家は『西洋和菓子処コバヤシ』という菓子店だった!

――もともと高校を卒業する時は家業を継ぐ選択肢もありながら、大阪商業大に進まれたんですよね?

 「大学に行くんだったら、もう家を継がなくていいのかなって。菓子店なのでお菓子作りの修行に行く必要があるわけです。東京か大阪の和菓子店か洋菓子店に入って、勉強すると。僕の下には弟がいて、結果的には彼がお店を継ぐんですけど、そういう弟がいて助かりました。もともとは2人のどちらかが関東で、どちらかが関西で修業を積んでほしいという夢が、父にはあったんですね。でも、僕は先生になってサッカーの指導をしたかったので、その流れからこういう仕事を今もさせてもらっているんです。

 自分は『本当に大学に行っていいのかな?』と思っていたんですけど、父が『そんなことは気にしなくていい』と。実はウチの祖母の実家も菓子店で、そこのおじさんに『たった4年間なんだし、そのあとでも修行には行けるんだから、大学に行けばいいんだよ』と(笑)。そういう相談の元で、父が『大学に行っていい』と言ってくれたので、それは凄く嬉しかったですよね」

――ちなみにお店の名前は何と言うんですか?

 「昔は和菓子が中心だったので、『林盛堂(りんせいどう)』でした。今は和菓子も洋菓子も扱っているので『西洋和菓子処コバヤシ』です。焼き菓子もあって、意外と味は悪くないですよ。是非『西洋和菓子処コバヤシ』をよろしくお願いします(笑)」

小林伸二の実家である「西洋和菓子処コバヤシ」

――大阪商業大学での4年間はいかがでしたか?

 「名門大学なので関西学生リーグで7連覇していたんですけど、自分が入学した年は3位で、8連覇が途絶えたんです。OBの方に『エライことをしてくれたな』と怒られましたね。そこからまた勝っていくんですけど、関西では負けられなかったですよ。個人的にはインカレで日本一が獲れなかったのは印象に残っています」

――4年間のインカレは全部準決勝で負けているんですよね。

 「そうなんです。そこを乗り越えられなかったのに、次の年から高校の後輩の勝矢くんと(松永)英機たちが3連覇するんですよ。やられましたねえ(笑)。インカレでは『もう勝てるから余計なことをするな』というような状況でファウルをして、そのFKを決められて負けたり、早稲田の試合の時は西野(朗)さんのヘディング一発だけでやられたり、もう1つ壁を突破できなかったですね」

――関西では敵なしだったので、やはり目標は日本一だったと。

 「そうです。総理大臣杯もそうですけど、とにかくインカレを獲ろうと。僕たちは準決勝が突破できなくて、その後に3連覇するなんて、僕たちがいかにいいものを落としていった先輩たちだったかということですよ(笑)」

――4年生のインカレでは、また早稲田の関塚さんに負けていますね。

 「覚えていません(笑)。関塚くんは良い人で、浪人して早稲田に入っているので、その浪人時代にユースの選抜の合宿を検見川まで見に来てくれて、『伸二、こういうふうにプレーしたらどう?』って言ってくれたんですよね。国体でも対戦していて、選手権でも対戦していたので、『ああ、凄く良い人だな』って。彼がフロンターレの監督をしていた時に、インタビューに行ったのも良い思い出です。僕は凄く近い関係だと思っています」

“貸借対照表”と“損益計算書”を知るプロサッカー監督の一面

――もともと教員になることを考えて大商大に行かれたと思いますが、実業団と天秤には掛けなかったんですか?

 「『もうサッカーができるんだったら実業団に行こう』と思っていました。指導者はいろいろ経験してからなればいいから、まずはサッカーをやろうと。その後に27、8歳でケガが多くなって、『ちょっと現役は難しいのかな』って思うんですけど、当時は教員の枠が28歳までだったんです。それ以降は先生になれないということで、小嶺先生に相談に行った時に、商業と社会の教員免許を持っていればどこの高校にも行けるということで、いくつか単位を取れば社会の免許も取れると。指導者を考えている人は体育の先生が多いから、枠が空かないと無理ですけど、もう島商の時に商業簿記1級は取って卒業していましたし、小嶺先生にも商業と簿記を教わっていましたからね」

――ああ、小嶺先生って体育の先生じゃないんですね。

 「そうですよ。簿記の先生でした。貸借対照表と損益計算書ね」

――ちょっと何言ってるかわからないです(笑)

 「貸借対照表は会社の財産。損益計算書は一定期間の利益を計上すること。貸借対照表はBSで、損益計算書はPLですよ」

――なんか急にそれっぽいことを出してきましたね(笑)

 「それで28歳の時にそういうことを考えたんですけど、そこから2年間は現役を続けて、30歳の時に今西さんから『指導者にならないか?』と言われたんです。まだ選手もやれるから、兼任でコーチをやってほしいと。コーチが試合の遠征でいなくなった時に、残り組を教えてほしいという感じですよね。

 もともと自分は指導者になりたかったわけで、こんな話が来るなんて良い機会だと思って、1日だけ考えて、今西さんに『もう選手をやめてコーチをやります』と言ったら、『いや、選手はやめなくていいじゃん』って(笑)。でも、その次の年ぐらいからJリーグが始まるんですけど、選手登録はしていて、サテライトに4試合ぐらい出ていますからね」

――そうですよね。当時の選手名鑑に写真が出ていましたよ。

 「だってマツ(松田浩)、望月(一頼)と僕のコーチ3人が選手登録していたんです。僕が出たサテライトの試合は4戦4勝ですよ(笑)」

――4戦4勝!どこで出たんですか?

 「センターバックです(笑)。5連敗した後に4回勝ちました。でも、その頃にはケガしていた選手も戻ってきていたので、『選手を使った方がいいです。僕が出るものではないと思います』とバクスター監督に言ったら、『若い選手を使って結果が出なかったんだから、オマエが出ろ』と。さすがに『いえ、無理です』と言いましたけどね。

 マツはチームにケガ人が多かった時に、Jリーグに出たら凄く活躍して、次の年にバクスター監督はヴィッセル神戸に行ったんですけど、マツは悩んだ末に選手として一緒に神戸に行きましたから。そういえばJリーグの最初の年に凄いゴールを決めましたよね。その年はもうコーチになっていたのに。そういう時代ですよ」

あの時、松田浩は僕らの前に坊主頭で現れた

――話が先に進んでしまいましたが、マツダ時代のお話も伺いたいと思います。同期には信藤克義(のちに健仁)さん、木村孝之さん、東海大の監督をされている今川正浩さんもいらっしゃいますね。

 「その年はマツダが大卒を7人獲ったんです。マツダのファミリアが大ヒットした頃ですよね。あの時に入社したので、ボーナスも相当良いタイミングでした(笑)。関東から信藤、今川、山田陸、慶応から三善(功仁明)さんが来られて、木村さんは1回先生になられたんですけど、2年間先生をされて、ヒザが良くなったからということで早稲田から入られたんですよね。僕と大阪体育大から上原(洋史)が来て、実はほとんどがキャプテンだったんです。今西さんはキャプテンだけを獲ったんですよ」

――伸二さんって大商大のキャプテンだったんですか?

 「一応キャプテンですよ(笑)。そういうことをのちのち今西さんがポロッとおっしゃったんです。自分も徳島ヴォルティスの監督の時に、藤原広太朗が立命館大でキャプテンをやっていたので、早めに獲りに行ったり、北九州に来た時もスカウトには『そういう部分も見ながら選手は獲った方がいい。のちのちチームを支えるから』と言いましたし、今西さんにはそういう狙いがあったと思います。

 次の年は筑波から織田(秀和)と望月が来て、マツは1年間ブラジルに留学していたので、1年遅れで入ってきたんです。マツは長崎北高校に通っていたんですけど、国体の長崎県選抜に島商以外から1人だけ入ってきたんです。しかも、それまで長髪だったのに、坊主頭にしてきたんですよ」

――島原商業の選手に合わせてきたということですか?

 「そうだと思います。マツは凄く上手くて、力強い攻撃的な選手でした。国体はベスト8で静岡に負けたんですけど、(風間)八宏がサイドバックをしていて、『コイツ何者や?』って(笑)。プレッシャーを掛けても、蹴らずにドリブルでピューと上がってきて、『え?これでディフェンダーか?』みたいな感じでした。アレは忘れられないなあ。僕はフォワードで、マツはウイングで、ドリブルとパンチ力がありましたよ。それでマツがマツダに入ってきた年に、オランダからオフトを招聘したんですけど、その頃からマツダは大卒の採用が難しくなったので、高卒に切り替えることになって、そこから前川(和也)、横内(昭展)、森保(一)が入ってくるわけです」

現在は日本代表監督を務める森保一。現役時代はマツダやサンフレッチェ広島でプレーした

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Photo: Getty Images

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小林伸二

Profile

土屋 雅史

1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!

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