「日本スポーツプレス協会(AJPS)」による「AJPSアワード2023」に選出された麻生英雄は、日本代表のW杯全7大会に帯同したキットマネジャーだ。世界的に有名になったロッカールーム清掃についても「どこか場所をお借りした以上、きれいにしてお返しするのが日本流の敬意、1つの文化だと思いますので、特別ではないと思う」と語る47歳の仕事への向き合い方に、横浜フリューゲルスで仕事を始めた当初から彼を知る増島みどりが迫る。
日本代表を支えるunsung hero(アンサンヒーロー=縁の下の力持ち)
「もし彼がいなかったら……」
今年48歳になろうという中年を、誰もがいまだに「麻生ちゃん」と呼んでいる。日本サッカー界ではただ1人、初出場を果たした98年フランスW杯から、昨年のカタールW杯まで、7大会連続出場を果たし輝かしい経歴を誇るレジェンドなのに。
47歳には見えない容姿、いつだって初心を忘れず仕事に向かうポジティブな雰囲気、サッカー経験はないが、代わりにバドミントンの競技歴が活かされているのか、前後、左右と、ピッチの内外を常に動き回る切れ味鋭いフットワークにも衰えは見えない。いまも「ちゃん」付けで呼ばれるのは、彼の働き方が、仕事を始めた頃から何ひとつ古臭くならず、これだけのキャリアを持っても、ベテランのように振る舞わないからだろう。
93年の開幕当初、ブラジル色の強かったJリーグは、サッカー用語に多くのポルトガル語を使用し、「ホぺイロ」もその1つだった。ポルトガル語では本来、服を吊るすクローゼットや洋服ダンスを指す言葉だ。サッカー大国では、選手の大量のユニホームを、クラブがまとめて管理する。
「その係がクローゼットにユニホームをドッサリ担いで仕舞う様子と、クローゼットがいつの間にか一体になってしまって“ホぺイロ”と呼ばれたみたいだよ……」
2021年にブラジルで亡くなった(享年66)ルイス・ベゼーハ・ダ・シルバは、かつてそう教えてくれた。当時のヴェルディ川崎に91年に来日。シャイな笑顔がトレードマークで、愛する仕事に心血を注ぎ、歩き出したばかりのプロリーグに欠かせない専門職としてホペイロを広め、定着させ、後進の道標となった。
95年1月、横浜フリューゲルスに入社し、未知の仕事を始めたばかりの麻生は、サッカー経験がなく、加えてJリーグにホペイロのはっきりとしたスタイルがないため戸惑った。そこで、垣根を越えて若手を指導してくれる、ベゼーハや、その元でスパイク磨きを極めていった松浦紀典(現在京都サンガ)を訪ねて教えを受けたという。こうした向上心の力で、この年、日本代表に初めて加わった。
ホペイロは日本サッカーの進歩の中で、英語の「エキップメントマネジャー」(装備品や機材の管理者)と呼び名が代わり、現在の「キットマネジャー」となった。呼び名は変っても、大量の洗濯もの、1回の遠征で300個を超える段ボールや荷物と格闘する任務は今も変らない。
スポーツ報道に携わるカメラマン、記者から成る「日本スポーツプレス協会=AJPS」は、日頃表に出る機会の少ない縁の下の力持ち「Unsung Hero」を称える「AJPSアワード2023」に、麻生英雄を選出した。麻生によれば「皆勤賞以来」の表彰に、代表選手たちも改めて敬意を表し、ともに喜んでくれた。
「もし監督が試合にいなくても、コーチもスタッフもいるからチームを勝たせることはできると思う。でも、もしキットマネジャーがいなかったら……試合に臨めないでしょうね」
森保一監督は、キットマネジャーの仕事をこう称える。W杯8大会連続出場を目指す麻生ちゃんの4年も、新たに始まった。
遠征のたびに、家族4人の引っ越し以上の段ボール350個
――表彰されるのは、本当に皆勤賞以来ですか?
「本当です。光栄の一言に尽きます。ただ、7大会連続は日本代表がW杯に出場してこその結果で、代表チーム、日本サッカー協会、一緒に仕事をするスタッフの皆さん、この仕事を教えてくれた先輩方に何より感謝したいと思います」……
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増島 みどり
1961年生まれ、学習院大からスポーツ紙記者を経て97年独立しスポーツライターに。98年フランスW杯日本代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」(文芸春秋)でミズノスポーツライター賞受賞。「GK論」(講談社)、「中田英寿 IN HIS TIME」(光文社)、「名波浩 夢の中まで左足」(ベースボールマガジン社)等著作多数。フランス大会から20年の18年、「6月の軌跡」の39人へのインタビューを再度行い「日本代表を生きる」(文芸春秋)を書いた。1988年ソウル大会から夏冬の五輪、W杯など数十カ国で取材を経験する。法政大スポーツ健康学部客員講師、スポーツコンプライアンス教育振興機構副代表も務める。Jリーグ30年の2023年6月、「キャプテン」を出版した。