今冬の移籍市場デッドラインデー、プレミアリーグ史上最高額の移籍金1億2100万ユーロ(約170億円)でベンフィカからチェルシーに加入し、8年半の契約を結んだエンソ・フェルナンデス。カタールW杯では全7試合に出場して優勝に貢献、大会最優秀若手選手にも輝き、一躍スターダムにのし上がったMFは、その開幕2カ月前までアルゼンチン代表にも選ばれたことがなかった。「挫折を乗り越えた過去こそが現在を築き上げた」という22歳の成長ストーリーを、リーベルプレート時代の指導者のコメントを交え、現地からChizuru de Garciaさんが伝えてくれた。
レンタル先から這い上がり、1年でリーベルと代表で頂点へ
エンソ・フェルナンデスの名前がアルゼンチンのメディアの間で取り上げられるようになったのは、彼が国内の中堅クラブ、デフェンサ・イ・フスティシアでプレーしていた時のこと(2020年8月〜2021年6月)。強豪リーベルプレートで叩き上げられた実力の持ち主だったが、マルセロ・ガジャルド監督(当時)率いるトップチームで出場機会を得ることができず、国際的な知名度の低いデフェンサへのレンタル移籍で「格下げ」された選手として見られていた頃だ。
デフェンサは2014年に1部リーグに昇格して以来、低予算でチーム力を高め、その後もレベルを維持し続けるクラブとして知られる。その鍵となるのが一貫した基準に基づく監督選びと、他のクラブでチャンスを失った“あぶれ者”の中から名手を選び抜く優れたマネージメントにあり、これについては2019年5月にフットボリスタ本誌に寄稿したコラムでも取り上げている。
その後デフェンサは2020年コパ・スダメリカーナと2021年レコパ・スダメリカーナでクラブ史上初となるタイトルを立て続けに勝ち取ったが、まるで熟練者のような冷静さと洞察力に、強靭なメンタルをもってデフェンサの偉業達成に貢献した「リーベルからレンタル中の若手」がエンソだった。コパ・スダメリカーナでは出場した6試合でパス成功率91%を記録して大会のベストイレブンにも選出され、南米諸国のメディアからも注目を浴び始めた人材をガジャルドがそのまま放っておくわけがなく、6カ月間残されていたレンタル契約を打ち切ってリーベル復帰を要請。そのため当時デフェンサの監督だったセバスティアン・ベカセッセが不満を露にし、この時生じた軋轢(あつれき)が両者の間に深い溝を作ったと言われる。
ガジャルドとベカセッセというアルゼンチンを代表する若手監督2人がいがみ合う原因になるほどの逸材であり、メディアの間でも徐々に話題になり始めていたものの、その時点で代表チームに招集される可能性については噂さえなかった。
ところがデフェンサからリーベルに返り咲くや、たった1年の間にエンソのキャリアは急激な飛躍を遂げていく。競争率の高いチームの中でやがてレギュラーポジションを勝ち取り、2021シーズンのアルゼンチン1部リーグを制覇した後、リーグ勝者とカップ戦勝者が対決するトロフェオ・デ・カンペオーネスでも優勝。欧州のクラブが獲得に興味を示す存在となり、ベンフィカ移籍後の2022年9月に行われた親善試合で初めてアルゼンチン代表としてプレー。ホンジュラス戦では途中から交代出場し、26分間に37本のパスをすべて成功させ、続くジャマイカ戦でも35分間のプレーでパス成功率94%を記録。リオネル・メッシからも絶賛されるスキルを見せ、W杯出場メンバーの候補の1人として考えられるようになったのは、W杯開幕のわずか2カ月前、「格下げ」のショックから2年後のことだった。
デフェンサから這い上がり、リーベルと代表で頂点に上り詰めるまでの姿を見てきたアルゼンチンのサッカー愛好家たちにとって、この2年間のストーリーはまさにシンデレラボーイのそれと言っていい。だが古くから彼を知るリーベルの指導者たちは、多感な思春期に苦汁を飲まされた経験、挫折を乗り越えた過去こそが現在を築き上げたと語る。
「幼児とは思えないインテリジェンス」と、その後の試練
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Profile
Chizuru de Garcia
1989年からブエノスアイレスに在住。1968年10月31日生まれ。清泉女子大学英語短期課程卒。幼少期から洋画・洋楽を愛し、78年ワールドカップでサッカーに目覚める。大学在学中から南米サッカー関連の情報を寄稿し始めて現在に至る。家族はウルグアイ人の夫と2人の娘。