2月8日、TSGホッフェンハイムは成績不振で解任したアンドレ・ブライテンライター監督の後任を発表。残留争いに巻き込まれているチームの再建を託されたのは、かつて同クラブでコーチを務めていたペッレグリーノ・マタラッツォだ。10月にシュツットガルトと袂を分かったばかりのアメリカ人指導者は、なぜ短期間でブンデスリーガの舞台に指揮官として復帰できたのか。その理由を探るため、彼の経歴や人柄について掘り下げてみよう。
投資銀行を蹴ってサッカーの道へ
アメリカのニュージャージー州、ナポリファンのイタリア系家族の下で生まれ育ったペッレグリーノ・マタラッツォは、当時米国内で「女子のスポーツ」と嘲笑されていたサッカーに情熱を注ぐ。勉学にも励んだ彼は、文武両道の優れた成績が認められ、ニューヨークにある名門コロンビア大学に入学。そこで応用数学を学びながらアイビー・リーグでプレーを続けた。
大学卒業後には投資銀行で働くオファーを受けたマタラッツォ。しかし、かつてディエゴ・マラドーナに憧れ欧州挑戦を夢見ていた彼は、ドイツ人スカウトの伝手を頼りながら異国の地でサッカー選手としてのキャリアを追う選択をする。
198cmの体躯を誇るアメリカ人DFのドイツ4部からスタートしたチャレンジは、当時3部のレギオナル・リーガのクラブを渡り歩いた後、1.FCニュルンベルクのセカンドチームで幕を閉じた。同クラブ在籍時にはすでに「いずれ監督になりたい」という意志が明確だったマタラッツォは2010年に32歳で現役を退いた後、ニュルンベルクのアカデミーであらゆる仕事を引き受けていく。フィジカルコーチやリハビリ担当コーチを担いながら、ライフキネティクスの講習も受講。さらには選手が通う学校とのコーディネーター、トップタレントがプロへと移行するためのコンセプトの開発、短期的にはスポーツ心理学の面からのアカデミー選手へのサポート役まで務めた。当時の多種多様な経験をのちにこう振り返る。
「私はどの分野でも専門家ではないが、できる限りすべての分野について学び、そのすべてから得るものがあった。すべての分野で理解を深めることができたことは、監督になるという私の目標に有益だったと考えている」
ナーゲルスマンを支えた「重要な」1年半
その実績が認められると2012年にニュルンベルクU-17の監督を任され、1年後にはU-19チームを率いることになったマタラッツォ。そこで出会ったのが、のちにホッフェンハイムで共闘することになる盟友、ユリアン・ナーゲルスマンと出会う。U-19ブンデスリーガ南・南西地区で、それぞれニュルンベルクとホッフェンハイムの監督だった2人は、公式戦や練習試合で顔を合わせる中で友好関係を築いていった。
そして2015年夏、マタラッツォとナーゲルスマンは同期としてドイツ最高位の指導者ライセンス講習に参加。すでに対戦相手として互いに敬意を抱いていた彼らは、講習期間を同じ屋根の下で過ごした。相部屋に決まったのは単なる偶然ではなく、「2人で決めたことだ」とマタラッツォはのちに明かしている。ナーゲルスマンは当時についてこう語っていた。
「僕たちは10カ月間、部屋をシェアしていた。その期間には、楽しいことも多くあったし、分析的な話をする時もあった。僕は彼を非常に高く評価している。彼は共感力に優れ、多くの専門知識と卓越した創造性を持つ監督だよ」
2017年夏には選手と指導者として計11年過ごしたニュルンベルクを去り、ホッフェンハイムのU-17監督に就任したマタラッツォ。するとわずか半年後にはトップチームのコーチとしてブンデスリーガの舞台へと引き上げられる。彼を抜擢したのが当時ホッフェンハイム指揮官として3季目を戦っていたナーゲルスマンだ。それからかつての“ルームメイト”がRBライプツィヒへと引き抜かれるまでの1年半、マタラッツォは参謀を担い欧州最高峰のコンペティションであるCLも体験した。アシスタントコーチとしてナーゲルスマンを支えた貴重な時間を、当人はこう回想している。……
Profile
cologne_note
ドイツ在住。日本の大学を卒業後に渡独。ケルン体育大学でスポーツ科学を学び、大学院ではゲーム分析を専攻。ケルン市内のクラブでこれまでU-10 からU-14 の年代を指導者として担当。ドイツサッカー連盟指導者B 級ライセンス保有。Twitter アカウント:@cologne_note