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同時に3か国語を操る、現代の聖徳太子。ベガルタ仙台の“闘う通訳”=ロドリゴ・シモエスさんインタビュー

2023.02.06

クラブの公式SNSでも、とうとう「#闘う通訳」というハッシュタグが付いた。ベガルタ仙台で通訳を務めるロドリゴ・シモエスさんのことだ。ポルトガル語、スペイン語、英語、そしてもちろん日本語も操るブラジル人通訳には、熱烈な“個人サポーター”までいるという。不思議な縁に導かれて、Jリーグの世界に足を踏み入れたロドリゴさんから、おなじみの村林いづみにさまざまなエピソードを引き出してもらおう。

老舗食堂の看板サポーターの「推し」は通訳だった!

 ベガルタ仙台の本社がある宮城県仙台市の魚信基ビル。その3軒隣には、仙台フロントスタッフの胃袋を支える“影の社員食堂”「藤や」がある。オフィス街の一角にあるこのお店は、一年を通して名物の冷やし中華を味わうことができ、ランチタイムにはボリュームたっぷりのカツカレーや定食を求めるビジネスマンでにぎわう。

 団子やお餅の販売も行っている、この老舗食堂ではベガルタサポーターの菅原敦子さんが優しい笑顔で迎えてくれる。ベガルタを応援してはいるが、彼女が熱い視線を送る先にいるのは選手ではない。菅原さんの「推し」は、通訳スタッフの「ロドリゴ・シモエスさん」なのだ。

 「なんて素敵な人なんだろう!」

 過去には浦和レッズに所属していた李忠成選手(現・アルビレックス新潟シンガポール)のファンだったという菅原さん。コロナ禍が始まるよりもずっと前のこと、試合を終えて本拠地に帰るレッズの選手たちを仙台駅まで見送りに行き、そこで一人の男性に目を奪われた。その人こそ、当時レッズで通訳を務めていたロドリゴさんだった。思わずサインと握手をお願いした。「僕でいいんですか?」。控えめに温かな手を差し伸べる姿に、心まで奪われてしまった。

 彼が通訳スタッフであることを知った菅原さん。外国籍選手のインタビューを注視するも、通訳スタッフが画面に映し出されることはめったにない。それでも心の中で「推し」の活躍を願っていた。まさか、そのロドリゴさんが、2022年に我が街・仙台へやってくるとは思いもしなかった。

ロドリゴ通訳を推す「藤や」の菅原敦子さん(Photo: Idumi Murabayashi)

 182cmの長身に、分厚い筋肉の鎧をまとう。選手以上に強烈な個性を放つ通訳スタッフのロドリゴ・シモエスさん。ポルトガル語通訳として、ブラジル出身のMFフォギーニョ選手、MFエヴェルトン選手を担当し、さらに英語やスペイン語も使いこなす。

 洗練された日本語にユーモアもたっぷり載せ、全身を使って情熱的に伝える姿は、見ている人の心を鷲づかみにする。誰がつけたか、コードネームは「闘う通訳」。なんだか情報盛りだくさんなロドリゴさんに、Jリーグ通訳として歩んできた道を振り返ってもらった。

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「闘う通訳」誕生のキッカケ


――お仕事の話の前に、すみません。気になるので先に聞かせてください。練習場でも目を引くロドリゴさんの鍛え上げられた筋肉ですが、トレーニングにはどのように取り組んでいるのですか?

 「体作りは大好きなんです。僕は自分に厳しく筋トレをすることによって、メンタルとフィジカルのバランスを上手く保っていきたいタイプなんです。例えば仕事の中でモヤモヤするようなことがあっても、ベンチプレスを上げたり、スクワットをする。重いものを持って気持ち良く汗をかくと、次の日はすごくすっきりしているんです。健康志向だけではなく、メンタル、フィジカルのバランスを取ることによって気持ちよく仕事ができる、というこだわりがあります」


――そうした見た目のたくましさも相まって、少し前にクラブのSNSでロドリゴさんの写真に「#闘う通訳」というハッシュタグが付きました。ご自身としてはこの表現はどう捉えていますか?

 「結構反響があったみたいですね(笑)。ありがたいです。“闘う通訳”としてこれからも頑張っていきたいです。これまでも闘わなければ何も手に入れることはできなかったと思います。日本に来てから闘ったからこそ、Jリーグで通訳になることができました。一日一日闘って、次の日が来る。自分に厳しく、そして人に何らかのポジティブなものを与えたい。自分に厳しく要求できるからこそ、選手にアドバイスをすることもできると思うんです」


――ロドリゴさんが、Jリーグクラブの通訳という仕事に就いたきっかけはどのようなことでしたか?

 「元々は全く違うジャンルの仕事をしていました。僕の友人がJクラブで強化の仕事をしているんですが、2009年の年末に『ジェフユナイテッド市原・千葉でポルトガル語通訳が急遽必要だ。喋れる人が必要だからやってもらえないか』という話がありました。それがきっかけとなって、“車線変更”というか、違う道に行ってみたいなと思いました。プロとして関わったことはそれまでなかったですが、サッカーは昔から好きでした。オファーを頂き、お試し期間として練習参加して、2010年に初めてJリーグの通訳として仕事をさせて頂きました」

いろいろな言語を操るようになった理由


――ロドリゴさんはブラジルご出身。日本で生活し、ポルトガル語、日本語はもとより英語、スペイン語も堪能ですが、なぜこれだけ様々な言葉を操ることができるのでしょうか?

 「僕の父が静岡県でレストランを持っていました。米軍の方々が多く来るお店でしたが、その頃、英語を使える人がいなくて誰も彼らをアテンドできないという状況で……。僕がそこで友達を作り始めてアメリカ人と仲良くなりました。それが16、17歳くらいの時です。英語に興味を持って、人とコミュニケーションを取りたいと思いました。そうすることによって物事が上手くいくと思いました。元々、家業で派遣会社をやっていたんです。人材を企業や工場に紹介するにあたって、面接などでも通訳をしなければいけない。そうしたことに携わって、初めて通訳をしました」


――スペイン語はどのように習得しましたか?

 「それは2011年に浦和レッズに入ってからなんです。スペイン語圏の選手が加入した時に、クラブから『スペイン語の通訳もよろしく。ロドなら大丈夫!』と言われました。『何が大丈夫だったんでしょう?』と思いましたが、それもチャレンジ。闘わなければいけないと大きな責任を感じました。ブランコ・イリッチやランコ・デスポトビッチたちを担当しました」


――ポルトガル語とスペイン語、似ている部分もありますが、異なる言語です。大きなチャレンジですね。

 「ミーティングではブラジル人選手が僕の右側に、スペイン語圏の選手が左側に座ります。そして、ミシャさん(ミハイロ・ペトロヴィッチ監督)が話をするんです。ミシャさんの言葉をポルトガル語に訳した後、スペイン語でも伝える状況が2年くらい続きました。そしてそこに、スピラノヴィッチ、アンドリュー・ナバウトなど英語圏の選手も来ました。『ロド、英語圏の通訳は入れないから』と。英語なら大丈夫かなと思ったんですが、何年かそういうことを経験して『そろそろ英語の通訳を入れません?』とクラブにお願いしました(笑)」


――三か国語の同時通訳は、どんなにロドリゴさんが優秀でも物理的に厳しいです!

 「僕が各選手にポルトガル語、スペイン語、英語をやっと振った辺りで、もうミシャさんや杉浦大輔さん(ペトロヴィッチ監督通訳)が次のことを喋り始めているんです。だから、僕は“聖徳太子”にならなければいけなくて。喋りながら同時に聞かないと、次に耳を向けた時にはもう出遅れてしまっているんです。すごく混乱するシチュエーションでした。脳に酸素が通わないってこういうことなんだなって思いました」


――訳し分けながら耳に入れる。まさに聖徳太子ですね。

 「ハハハ。そうですね。いろんな人の話を同時に聞くってこういうことなんだって。喋りながらも耳に入れてというのは難しいですね。喋っているのに聞いているんですよ。でも耳にはちゃんと入っていますからね。何とかできていたんですよね、その時は」

ミシャさんを見て確信した“エモーショナル”の大事さ


――すご過ぎます。ジェフ千葉で1年、浦和レッズで2011年から2019年の途中まで。V・ファーレン長崎を経て、ベガルタ仙台へ来ました。通訳としてこれまで関わった監督、選手に関する忘れられないエピソードを教えてください。
……

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J2リーグエヴェルトンフォギーニョベガルタ仙台ミハイロ・ペトロヴィッチロドリゴ・シモエス

Profile

村林 いづみ

フリーアナウンサー、ライター。2007年よりスカパー!やDAZNでベガルタ仙台を中心に試合中継のピッチリポーターを務める。ベガルタ仙台の節目にはだいたいピッチサイドで涙ぐみ、祝杯と勝利のヒーローインタビューを何よりも楽しみに生きる。かつてスカパー!で好評を博した「ベガッ太さんとの夫婦漫才」をどこかで復活させたいと画策している。

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