韓国経由で無名から駆け上がった苦労人。ミスラフ・オルシッチがディナモの「カルトヒーロー」たる所以
各国代表選手が自身の実力と価値を世界に知らしめる「見本市」でもあるW杯。カタール大会で出場時間が計161分に限られながらも1ゴール2アシスト、さらにその1点は3位決定戦・モロッコ戦での鮮やかなコントロールショットによる決勝弾と、記録と記憶に残るパフォーマンスを披露したのがクロアチア代表FWミスラフ・オルシッチだ。その活躍が認められ6日にサウサンプトンへと加入した彼が、前所属のディナモ・ザグレブで「カルトヒーロー」として崇拝されている所以とは。お馴染みの長束恭行氏に紹介してもらおう。
もし「愛される選手」に法則性があるとしたら、クロアチアでは天才や秀才よりも「苦労人」が最終的に選ばれるだろう。スターシステムに則って代表入りするような有望株は、本人のうぬぼれや周囲の媚びへつらいも重なって世論の目が厳しくなり、急いで国外移籍してからは崖を転げ落ちるようなキャリアを送りがちだ。
2000年代前半の代表チームで絶大な人気を博した苦労人といえば長身CFのダド・プルショ。若くしてクロアチアを追われ、自動車工として働きながらフランス4部リーグで一念発起して28歳で初代表入り。悪意あるメディアに彼のルーツ(セルビア人)を暴かれても熱狂的な支持は決して失われなかった。キャリア当初は“2世タレント”ニコ・クラニチャールの陰で茨の道を歩んだルカ・モドリッチにしても、(背景に「ディナモ・ザグレブ対ハイデュク・スプリト」の対立構図があったとはいえ)苦労人ならではのシンパシーを得られた時代があった。ましてや代表に一度も選ばれることもなく、国外移籍にも恵まれず、薄給の国内クラブを長年渡り歩くようなベテランは、サッカーファンやメディアの間で「カルトヒーロー」として崇められる。
そんなベテランほど“激渋”でないにしろ、現在のクロアチア代表でマルコ・リバヤ(ハイデュク)と並ぶ「カルトヒーロー」に挙げられるのが、サウサンプトンに移籍したばかりのウイングストライカー、ミスラフ・オルシッチだ。彼がディナモのサポーターの間で英雄視されるのは、新たな歴史を刻むゴールを数多く挙げたことに加え、ある言葉をインタビューで残したことだ。サポーターの心をくすぐり、永遠に語り継がれるだろうオルシッチの名言は、これだ。
「Nema večeg kluba od Dinama」(ディナモ以上のビッグクラブは存在しない)
伸び悩みでたどり着いた「約束の地」韓国での成長
オルシッチのキャリアはまさにクロアチア人好みの「おとぎ話」だ。1992年12月29日、3人きょうだいの末っ子(姉2人)として首都ザグレブで生まれたミスラフは、ボールを心底愛し、将来はディナモでプレーすることを夢見ていた少年だった。熱狂的なサポーター「バッド・ブルー・ボーイズ」が集まるマクシミール・スタジアムのゴール裏にも通い、モドリッチやエドゥアルド・ダ・シルバが躍動したディナモの試合が今でも忘れられないそうだ。
5歳からサッカースクールに通い、15歳で首都郊外のインテル・ザプレシッチに入団。今ではスピードを売りとしているが、その当初はボランチの選手だった。まずは1列前にポジションを移し、トップ昇格の頃には今のウイングに定着。デビューは16歳9カ月と早く、4年目の12-13シーズンには11ゴールでチーム得点王にも輝いている。世代別代表にも名を連ねるホープだったが、そのシーズンにインテル・ザプレシッチが2部降格の憂き目に遭ったことでセリエBのスペツィアに移籍。そこから彼の流浪のキャリアがスタートする。
2013年のクロアチアのEU加盟を前後して数多くのクロアチア人がセリエのクラブに青田買いされ、アドリア海を越えてイタリアに渡った。ところが、その大半がキャリアアップにつまずいている。外国人よりも自国人が優先的にチャンスを与えられる国ではキャリアを潰しかねない。イタリアはクロアチア人の「約束の地」ではないことが明らかになり、一時的な移籍ブームは終焉を迎えたが、オルシッチもまたセリエBでは9試合出場・無得点という不本意な数字で1年を終えていた。
翌14-15シーズン、スペツィアと同資本だった母国のリエカに移籍。早い段階でスロベニア1部のツェーリェにローンされたものの、そこでも13試合出場で2得点止まり。伸び悩む彼に代理人のブランコ・フチカ(現役時代に蔚山現代や湘南ベルマーレでプレー)が推薦してきたローン先が、韓国南部の光陽市に本拠地を置く全南ドラゴンズだった。
「韓国に渡った時は22歳だった。どんな場所か知らないだけに恐れはあったけど、代理人が『向こうでは外国人をリスペクトしてくれる』『生活はとても整っている』と説明したことでためらいはなくなった。僕のキャリアが花開くこともなかったので移籍を承諾したんだ。韓国行きは大正解だったよ。最初は楽ではなかったけど、妻と僕はすぐに生活に適応できた。一番大変だったのは食事だね。最初の6カ月は韓国料理を敬遠していた。しかし、少しずつ試していったら新たな味覚に感激するようになったんだ。今では韓国料理が恋しいぐらいだ」
Profile
長束 恭行
1973年生まれ。1997年、現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて銀行を退職。2001年からは10年間のザグレブ生活を通して旧ユーゴ諸国のサッカーを追った。2011年から4年間はリトアニアを拠点に東欧諸国を取材。取材レポートを一冊にまとめた『東欧サッカークロニクル』(カンゼン)では2018年度ミズノスポーツライター優秀賞を受賞した。近著に『もえるバトレニ モドリッチと仲間たちの夢のカタール大冒険譚』(小社刊)。