「おかげでサッカー選手になれた」青森山田での3年間は意外の連続だった。ハノーファー室屋成インタビュー(前編)
2020年夏にFC東京からドイツへ飛び立つと、新天地ハノーファーで瞬く間にチーム不動の右サイドバックとして地位を築き上げ、3年目の2022-23シーズンは一列高い右ウイングバックのポジションで得点力を開花させている室屋成。移籍後初ゴールを含む3点を今季早くも記録するなど、充実の日々を送っている現在とその原点が形作られた過去を本人の口から存分に語ってもらった。
前編では、南野拓実と出会った幼少期から、意外の連続だった青森山田高校時代までのサッカーキャリアを振り返る。
日の丸を背負っても…幼馴染“拓実”の変わらぬ面影
――まずはサッカーを始めたキッカケから教えていただけますか?
「まず、自分には3つ上の兄がいて、親がその兄のサッカーに迎えに行くので、よく付いていっていたんですよね。その時にやっぱり兄を迎えに来ていた(南野)拓実がいて、待っている間に2人で遊んでいたんです。その中で拓実もサッカーを始めたので、『成もやろうぜ』と言ってきて、そこから始めたというような、自然の流れでしたね」
――サッカーがとにかく好きだったから始めたわけではない感じですか?
「そうですね。どちらかと言うと僕の住んでいた地域は野球の方が人気があって、小学校の友達とは遊びで野球をやっていました」
――プロ野球も見たりしていましたか?
「はい。父が野球派だったので、阪神タイガースの試合はいつもテレビで見ていましたね。金本選手とかウイリアムスとか、『キャッチャー矢野』とか(笑)、阪神をよく見ていたのは覚えています」
――泉南郡熊取町のご出身ですよね。鬼ごっこが好きだったというお話がいろいろなエピソードで出てきますが、やはり周囲に野原とかが多かったのかなあと。
「空き団地とかも多かったので、遊ぶスポットもたくさんあって、よく友達と空き家みたいなところで鬼ごっこしたり、マンションを走り回ったりしていました。それはメチャメチャ楽しかったですね。サッカーの練習が終わった後も、鬼ごっこやかくれんぼをやったりしていました」
――幼馴染の南野拓実選手のことはよく聞かれていると思いますが、第一印象は覚えていますか?
「第一印象は弟みたいな感じでした。僕は4月生まれで、拓実は早生まれ(1月生まれ)なので、僕の方が身体能力も高くて、できることが多かったんですよ。『かわいくて、負けん気の強い弟』みたいなイメージですね」
――その面影は今でも感じるんですか?
「そうですね。一緒にいる時は変わってないですね」
――3、4歳からの知り合いと日の丸を付けて一緒に戦うなんて、ほとんどの人が経験できないことですけど、それはどういう感覚なんですか?
「違和感はありますね。小さい頃の拓実のイメージが凄く僕の中にあるので、拓実が代表のエースみたいに言われるのは凄く違和感があります。一緒にやれるのはメチャメチャ楽しいですけど、僕の中には昔と変わらない拓実がいるので」
――小さい頃は意外にもバティストゥータが好きだったんですよね。だいぶ今のプレースタイルからはかけ離れている気がしますが、これはどういう理由からですか?
「かけ離れていますよね(笑)。僕の性格的にちょっと人と違うところを好きになりたい、みたいな変なこだわりがあって、当時はロナウドかロナウジーニョかみたいな派閥があったんですけど、『いや、バティストゥータがヤバいでしょ!』というひねくれた想いもありつつ、あの長髪もあって単純に見ていてカッコいい感じも好きでしたね。アルゼンチン代表のユニフォームも持っていました」
――プレーも真似したりしました?
「真似はそこまでしてなかったと思いますけど、小さい頃は僕もフォワードをやっていたので、当時は拓実の家で、拓実のお父さんによくDVDを見させられていました(笑)。その時はセリエAが流行っていたので、フィオレンティーナにいたバティストゥータもそうですし、ロナウドとかが出てくるセリエAのゴール集を2人で見ていましたね」
――髪は伸ばしたりしてないですか?(笑)
「あそこまでロン毛にはしてないですね。小学生であそこまではできないです(笑)。懐かしいなあ」
――中学生になる時にセレッソ大阪とガンバ大阪、両方のセレクションに落ちたとうかがいましたが、やはりJクラブの下部組織でプレーしたい気持ちが強かったんですか?
「大阪に住んでいてサッカーをやっていたら、やっぱりセレッソかガンバのジュニアユースに入るのがステータスですし、とりあえずほとんどの小学生はセレクションに行くんですよね。拓実はスカウトみたいな感じでセレッソに行くことが決まっていて、僕も一応受けに行ったんですけど、見事に撃沈されました(笑)」
――ガンバとセレッソは住んでいる地域でどちらに行くか決まる、みたいなお話を聞いたことがあるんですけど、室屋選手の住んでいた地域はどちら寄りですか?
「完全にセレッソです。試合もよく見に行っていました」
――その中でガンバのセレクションも受けに行ったんですね。
「練習会に呼ばれたんですよ。最初からセレクションを受けたわけではなくて、『最終セレクションに来てください』みたいな感じで」
――期待させられるヤツですね(笑)。
「そうです。『これ、行けるじゃん!』みたいな感じで最終セレクションに行ったら落ちました(笑)」
――この2チームのセレクションに落ちたことは、やはり今から振り返っても大きな出来事ですか?
「そうですね。小学生なりにメチャメチャショックというか、大阪でサッカーをやっていて、セレッソとガンバに落ちるということは、小学生の自分にしてみれば『もうプロにはなれないよ』と言われてしまうような感覚なので、その時にはサッカーで上に行くことは諦めていましたね。だから、中学のチームもそのままゼッセル熊取に残って、3年間は友達と楽しくサッカーをやっていました」
「言われたから行った」青森山田の練習参加が契機に
――とはいえ、中学時代は大阪府選抜に入っていたんですよね?
「大阪府選抜にはギリギリで入っていました。何で入っていたんだろうなあ。でも、正直そこまで気持ちも入っていなかったです。大阪府選抜に入っていても、ジュニアユースの選手だけが集まるトレセンもあるんですよ。僕らの上にもう1つ、セレッソとガンバの合同チームがあったので、『アイツら、態度デカいな』みたいにひねくれたことを言っていましたね(笑)」
――中学時代に南野選手と対戦したことがあると。
「はい。0-10ぐらいで負けました。拓実が途中から出てきて3点決めたんです。その時のことはいまだに拓実からイジってきますね。その時は正直そこまでサッカーに気持ちが入り切っていなかったので、シンプルに『凄いな』と思っていました。だって、中3がメインの試合で、中1の拓実が出てきてハットトリックですからね。その時はもう拓実も有名だったので『凄いな』って」
――そんな中学生が青森山田高校に行くのはかなり唐突な気もしますが、そもそも高校に上がる時の選択肢として、府内や近畿内の強豪校に行くことや、ガンバやセレッソに再挑戦することは考えていましたか?
「ユースに行くのは全然考えていなかったです。兄が近大和歌山高校で選手権に出たので、それを見て『カッコいいな。選手権に出たいな』と思ったんです。それがきっかけで高校サッカーをやりたいという想いになりましたし、大阪の高校も何校か選択肢にはあったんですけど、選手権に出るチームが大阪は分散していますし、青森山田はずっと青森県の代表になり続けていたので、『これは行ったら選手権に出られるぞ』という甘い考えで行きました。あんなに厳しいなんて知らずに行って、最初は後悔するという(笑)」
――そもそも青森山田との接点は、奈良インターハイで関西に来ていたチームの練習に参加したんですね。
「そうです。Aチームのサブ組の練習試合に出してもらいました。なんか調子が良くて、黒田(剛)監督に『来たいなら来てもいいぞ』みたいな感じで呼んでもらいました」
――もともと青森山田自体は知っていたんですか?
「いえ。全然知らなかったんですけど、その時に(柴崎)岳くんがいて『おお、凄いところやん』って。その時に初めて知りました」
――サッカーの情熱がそこまで強くない時に、まったく知らない高校の練習試合に参加するって、普通に考えると嫌じゃなかったですか?
「ああ、確かに。でも、中学のコーチに『人数が足りてないらしいから行ってきてくれ』みたいに言われたので、そんなに『よっしゃ!やってやろう!』みたいな感じで行ったわけではなかったですね。言われたから行ったようなイメージでした」
――ゼッセル熊取の代表の方は黒田監督の大阪体育大学時代の後輩なんですよね。僕はもう室屋選手を獲ることは、練習試合に参加した時点で決まっていたんじゃないかなって思うんですけど。
「いえ、決まっていなかったと思いますよ。どうなんですかね。確かめたことはないです。ちょっと聞いてみたいですね」
――青森山田に行くことを決めたら、その冬に選手権で全国準優勝しちゃったじゃないですか。あれはどういうふうに見ていたんですか?
「そうなんですよね。その時の青森山田がテレビで見ていても本当にカッコよかったので、『メッチャカッコいいところに行けるじゃん!』という感じでした。中学校の友達も僕が青森山田に行くと聞いても、『え?どこ行くん?』みたいな感じだったんですけど、選手権で活躍して話題になったので、いきなりみんなも『凄いところに行くんだね』って(笑)。もう鼻高々でした」
“サバイバルゲーム”での自信を胸にU-16代表へ
――それで実際に入学したら、とにかく凄いところだったと。最初は何が一番大変でした?
「何ですかねえ。生活から、練習量から、全部ですね。上下関係も厳しかったですし、練習もキツいですし、全部です」
――サッカーが嫌だなとはならなかったですか?……
Profile
土屋 雅史
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。昔は現場、TV中継含めて年間1000試合ぐらい見ていたこともありました。サッカー大好き!