好調サンフレッチェを支える陰の立役者。松尾喜文コーチとスキッベ監督を繋ぐ不思議な縁
就任1年目のミヒャエル・スキッベ監督の指揮で快進撃を続けるサンフレッチェ広島。好調のチームを陰から支えているのが、コーチを務める松尾喜文だ。ケルン体育大学で学び、SCデュッセルドルフや1.FCケルンで働いてきたユニークなキャリアを持つ44歳は、スキッベ監督と広島を結びつけたキーマンでもある。2人の信頼関係は、チームの雰囲気にも確実に好影響を与えているはずだ。
円陣でのやり取りにみる、阿吽の呼吸
ルヴァンカップ決勝進出を果たした直後、ミヒャエル・スキッベ監督は選手たちを集め、ピッチ上で円陣を組み、言葉を発し始めた。今や恒例となっている風景だ。
「試合が終わったばかりのタイミングで、私がまず感じたことを選手に伝えたい。また選手にとっても、まだ醒めきらない状態でフィードバックを受けることは重要だと思っている」と指揮官は円陣の理由について、語っている。
今までだったら、その内容を直接、聞くことはできない。だが、スキッベ監督はクラブのオフィシャルカメラに録画を許し、それをYouTubeで公開することも許している(もちろん、放映権を持っているステークホルダーの理解があってこそでもある)。だから今、サッカーファンはミヒャエル・スキッベが試合直後、まず何を喋ったかを聞くことができる幸せな環境下にあると言えよう。
では冒頭のシーンに戻ろう。9月25日のルヴァンカップ準決勝第2戦(福岡戦)に引き分け、広島は決勝進出を決めたという事実を踏まえ、監督は落ち着いて語りかけた。
「すごくいい試合だった。相手を自分たちのゴールから遠ざけていたから」
通訳を務める松尾喜文コーチもまた、落ち着いた口調である。
「チームとして凄く集中したサッカーができた」
松尾コーチの言葉は明快だ。歯切れもいい。
「ファイナルだよ。喜んでいいからね」
少し、テンションがあがった。
選手たちは誰もが、監督を見つめている。ほぼ、視線を外さない。ミヒャエル・スキッベ監督の言葉の一つひとつを噛みしめようとしている。だからこそ、監督のドイツ語が松尾コーチを介して日本語になることを、待っている。
「(天皇杯準決勝の)京都戦も勝って、2つのファイナルに行くからね」
松尾コーチの言葉が終わるや否や、監督がドイツ語を被せてきた。すぐに、訳された。
「いい10月にするよ」
「OK!!」
選手たちから声が出た。
「明日は休み!!」
日本語のテンションがあがった。選手たちの歓声。
「明後日も休み!!」
ボリュームが大きくなった。
「3オフ!!」
もはや、松尾コーチは叫んでいる。3日連続のオフ。
「ウワーーーッ」
拍手。すかさず、選手が口を挟む。
「全員?」
指揮官は笑顔で言葉を発した。松尾コーチ、今度はテンションを落として。
「3日目は(今日)長くプレーした人だけ」
チームが笑いに包まれた。
指揮官が再び、言葉を繋げる。
「凄くいい相手だった。でも、俺たちは勝ち抜いた。おめでとう」
スキッベ監督は成果を残すと選手たちに「おめでとう」と言い、トレーニングのセッションが終わると必ず「ダンケシェーン」と言う。それも松尾コーチはしっかりと訳す。
「今夜は決勝進出の余韻に浸りながらね、でもケアが必要な人はケアするんだよ」
この言葉も常に指揮官は口にする。そして、ケアを怠ってトレーニングでケガをした選手は、今のところいない。
最後はセハット・ウマルコーチが「凄いねっ」と日本語で叫び、円陣は終わった。この一体感こそ、今の広島の強さを示すもの。そしてその中心にいるのは、もちろんミヒャエル・スキッベ。松尾喜文がその媒介者としての仕事をしっかりとやり抜いていることで、メッセージはチームに浸透している。
ドイツに根を張ったユニークなキャリア
それにしても、松尾喜文コーチは不思議な運命を辿って人生を歩いている。レールに乗っているかと言われれば、彼が乗るべきレールそのものが存在しないかのような人生だ。もっとも、本当は誰も人生のレールなど持っていない。運命は何かの拍子で違う顔を見せ、人間を翻弄するものだ。
1977年、千葉県で生まれた松尾喜文は、順天堂大のサッカー部で迫井深也現広島ヘッドコーチとともにプレー。迫井は、卒業と同時にFC東京にプロとして加入したが、松尾は大学院に進学。修士論文の資料集めが必要になったことから、ドイツに渡った。その時の暮らしが気に入ったのか、論文を書き上げた後でまたもドイツに向かった。ケルン体育大学で学び、現地で知り合った日本人女性と結婚し、個人事業主のような立場で仕事を続けた。2010年からはSCデュッセルドルフWESTでコーチを務め、2019年からは同時に1.FCケルンの国際部で働いていた。
ミハイロ・ペトロヴィッチ監督(札幌)の名通訳として活躍している杉浦大輔コーチは、松尾コーチにとってケルン体育大学時代の先輩にあたる。2006年6月、広島の新監督を探していた織田秀和強化部長(当時)は、かつてイビチャ・オシムを千葉の監督に招くことに成功した祖母井秀隆氏の紹介で、ミハイロ・ペトロヴィッチと会うことに。その時、通訳を務めたのが杉浦大輔だった。
彼は当時、ケルン体育大学の学生で、2006年に行われるドイツW杯関連の仕事もすでに内定。ただ、「プロ監督とクラブとの交渉現場に携われる機会などめったにないから」という興味で、現場に立ち合った。だが、パートタイムの仕事だったはずなのに、契約締結後、ペトロヴィッチ監督から「お前も一緒に来てくれ」と言われ、クラブからのオファーを受けて通訳の仕事が決定。急遽、広島に赴くことになった。
広島の足立修強化部長がドイツを訪問した際、その杉浦からの紹介を受けて通訳やアテンドの仕事を行ったのが、松尾コーチだった。「あれはいつだったか、ちょっと覚えていないのですが、もう10年以上にはなりますね」と足立部長は言う。以来、松尾コーチと広島は繋がっていた。
昨年、広島が新監督を探すにあたって足立部長は「海外の指導者にチームを任せたい」と考えた。
「日本の指導者のレベルは高い。でも、世界のサッカーが急速に変化している中で、日本人にない幅広い経験をもった方に来ていただけないかと考えたんです」
すぐに浮かんだ名前があった。ミヒャエル・スキッベ。20世紀後半からドイツサッカー変革の旗印となり、2002年W杯では戦術担当コーチとしてドイツのファイナル進出に貢献した。以降、ドルトムントやレバークーゼンといった大きなクラブでの指揮も経験し、ギリシャ代表では低迷していたチームを復活させた。ドイツサッカー界では知らない人がいないという名指導者だ。
「実は、ドイツでボルシア・ドルトムントのU-18チームを視察した時、トレーニングの指揮を執られていたのがスキッベさんだった。その時の指導ぶりがとても印象深かったんです」
育成面での手腕も確かなスキッベ氏だが、あれほどの人が広島に来てくれるのだろうか。そんな不安を持ちながら、旧知の松尾コーチに相談してみた。
「ミヒャエル・スキッベさんって、知ってる?」
返ってきたのは意外な言葉だ。……
Profile
中野 和也
1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。