意思で身体動作を共有する「インテンション・サイクル」とは何か?
25歳でアルゼンチンに渡り、現地の監督養成学校に3年間在学、CONMEBOL PRO(南米サッカー連盟最高位)ライセンスを取得し、帰国後に鎌倉インターナショナルFCの監督に就任した異色の指導者、河内一馬。彼が提唱している「インテンション・サイクル」というサッカーの新たなフレームワークが非常にユニークだ。彼はサッカーをどのように再定義し、そして構築した理論をどのようにトレーニングへと落とし込んでいるのか。日本オリジナルな取り組みとして紹介したい。
※『フットボリスタ第89号』より掲載
サッカーというゲームの「構造」を理解しようとする上で、誰もがまず初めに思い浮かべるのは、「サッカーには4つの局面がある」というお決まりのセリフである。このゲームにおける戦術論やトレーニング理論、何らかのメソッド、その他の体系化されたものはすべて、「攻撃(ボール保持)」「守備(ボール非保持)」「攻撃→守備」「守備→攻撃」の4つの局面サイクルを基盤としている。いわばサッカーにおける大前提、議論の出発点である。言わずもがな、サッカーというゲームの理解が深く多角的になればなるほど、この「議論の出発点」からは遠く離れていく運命で、今さらここにメスを入れようとする者などいない。しかし、この「攻撃と守備」の概念はとりわけサッカーというゲームにおいては、厄介な存在だ。
サッカーにおける「攻撃と守備」の曖昧さ
攻撃とは何か? 守備とは何か? と妥協せずに哲学すると、そこには無視していいのか、してはいけないのか、よくわからない矛盾があることに気がつく。「攻撃と守備」=「ボールを持っている時とボールを持っていない時」と初めに整理をした者は、どう考えてもそこには矛盾が孕んでいることを知っていたはずである。
ちょっと待てよ、ボールを持ちながら自陣のゴール方向に向かっている私たちは、今「攻撃」をしているのだろうか? はたまた、ボールは持っていないけれど、守らなければならない自分たちのゴールから勢い良く離れていっている私たちは、今「守備」をしていると言えるのだろうか? そもそも私たちはもう疲労困憊で、ボールを持ってはいるけれど、得点を取る“意思”などもうどこにもないのだ……。
このサッカーというゲームにある「攻撃と守備の不明瞭さ」は、全世界の全員が無視できるほどどうでも良いことなのだろうか。実はこの不明瞭さが、気づかないところで、なんらかのエラーを生んでいるのではないだろうか。
サッカーとは「個」ではなく「団体」で成果を求められるゲームである。その証拠に、サッカーは「ある個」がプレー不可能になったとしても(例えば退場処分)、ゲームはそのまま成立する構造になっている。つまり、ゲーム自体の目的である「勝敗を決める=優劣をつける」を達成するために、「個の成果」は必ずしも必要とされない、ということを意味している(他のスポーツ/ゲームのほとんどはそうではなく、「個の成果」がなければ成立しない構造になっている)。
であれば、「個」と「個」が“団体としての成果”を出すためには、「個」と「個」を繋ぐ何かしらが必要であり、それが広義の意味で「コミュニケーション」である。「コミュニケーション」と一口に言っても、それを「話すこと」あるいは「言葉を使って伝えること」であると結論づけるのはあまりに軽薄である(特にサッカーを語る上では)。ただ、その種類や方法にかかわらず、先に書いたように「攻撃と守備」の概念が不明瞭であるということは、この「コミュニケーション」を成立させる上で決定的なエラーを生み出しているのではないか? 例えば、チームのうち「誰かが攻撃をしているのに誰かが守備をしている」というような状況を生んでしまう可能性はないのだろうか? 少なくとも、その疑いをかける余地は残されている。
「攻撃と守備」に内包される「①姿勢」「②権利」「③意思」
「攻撃と守備」について掘り下げて考えると、そこには「①姿勢」「②権利」「③意思」の3つの要素が隠されていることがわかる。「①姿勢」とは、例えばゴルフのプレーヤーが「攻めたショット」や「守りに入った」と表現するように、プレーヤーのプレーに内包されている「“攻撃的な”姿勢」や「“守備的な”姿勢」のことである。基本的に、「攻撃と守備」の概念が必要とされるのは、相手プレーヤーに意図して妨害を加えること(影響を与えること)が許されているスポーツ/ゲームに限るが、ゴルフのようにそれが許されていないスポーツ/ゲームにおいても、「①姿勢」に関しては「攻撃と守備」の概念が用いられることがある。
サッカーにおける「攻撃と守備」を整理する上でより明確にしなければならないのは、「②権利」と「③意思」である。「②権利」とは、例えば2人の人間が向かい合わせになり、1人は剣を持ち、1人は盾を持っているとする。両者の背後には、両者の「目標物(=目的を達成するために必要となるもの=ターゲット)」である「宝箱」が置かれている。この時の「剣」と「盾」が意味しているのは、それぞれに与えられている「攻撃の権利」と「守備の権利」である。
人為的にルールが定められるゲームであれば、プレーヤーが持っている「攻撃の権利」と「守備の権利」はある一定の条件をそろえることで切り替えられる。わかりやすい例で言えば、野球においてバットを持っているチームは「攻撃」であり、グローブを持っているチームは「守備」である。この「ターン」は3つのアウトを取ることによって明確に切り替わる。野球というスポーツ/ゲームにおいて「攻撃と守備」が誰から見ても明らかなように、「②権利」によって「攻撃と守備」が切り替わる場合は、それについて哲学的な議論が必要ない。
これをサッカーに置き換えると、この「②権利」とは即ち「ボール」のことである。ボールを持っているチームは「攻撃の“権利”」を持ち、ボールを持っていないチームは「守備の“権利”」を持つ。ゲームの目的を達成するためには得点を取る必要があり、そのためには「ボール」が必要である。つまり、私たちはサッカーにおいて「攻撃と守備」に言及する時、この「②権利」に“のみ”焦点を当てているのである。しかし、サッカーにおいて「攻撃と守備」を「②権利」=ボールに“だけ”依存させることは、本来できないはずである。
「②権利」の文脈で「攻撃と守備」を分けると、英語では「オフェンスとディフェンス」と表現できるが、一方で、これから触れていく「③意思」においては「アタックとプロテクト」と表現するのが適切であると考えられる。日本語では「攻撃(攻める)」と「守備(守る)」という言葉でしか表現ができないが、英語にすると2つの種類に分けることができ、ここではそのように理解する。
例えば2人の人間が、今度は何も持たずに向かい合っているとする。両者の背後には「ターゲット」である「宝箱」が置かれている。この時点で両者には何も「権利」は与えられていないが、1人がターゲットに向かっている(移動している)一方で、もう1人はその場に留まっている(静止している)場合、これはつまり、前者は「攻撃(アタック)をする」という「意思」が「身体動作(ターゲットに対する接近)」として表れている状態であり、後者は「守備(プロテクト)をする」という「意思」が「身体動作(ターゲットに対する静止もしくは離反)」として表れている状態である。この「意思による身体動作」は、サッカーにおいては重要な「コミュニケーション」として機能する。
わかりやすい例で言えば、ボクシングにおいて「攻撃と守備」を考える時、そこには「②権利」という意味での「攻撃と守備(オフェンスとディフェンス)」は存在しないが、「③意思」という意味での「攻撃と守備(アタックとプロテクト)」が絶えず切り替わりながらゲームが行われていることがわかる。「攻撃をする(アタックをする)」という「意思」のあるプレーヤーは相手プレーヤーに向かって移動(接近)し、拳が「ターゲット」に向かって移動する(=パンチ)。一方で「守備をする(プロテクトをする)」という「意思」を持っているプレーヤーはその場に留まり(あるいは離反し)、拳を静止させて自らの身を守ろうとするのだ(=ガード)。スポーツにかかわらず、人間が「どのような意思を持っているか」は身体動作によって可視化され、それは基本的に、他者によって認識可能(評価可能)である。
スポーツ/ゲームによっては「オフェンス=アタック」あるいは「ディフェンス=プロテクト」と言っても良いものがあるし、あるいはそのどちらかを理解すれば十分な場合もあるが、サッカーは「オフェンスとディフェンス」「アタックとプロテクト」の4つが入り混じっており、それゆえ複雑な構造をしている。
「インテンション・サイクル」によるサッカーの4局面の再定義
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Profile
河内 一馬
1992年生まれ、東京都出身。18歳で選手としてのキャリアを終えたのち指導者の道へ。国内でのコーチ経験を経て、23歳の時にアジアとヨーロッパ約15カ国を回りサッカーを視察。その後25歳でアルゼンチンに渡り、現地の監督養成学校に3年間在学、CONMEBOL PRO(南米サッカー連盟最高位)ライセンスを取得。帰国後は鎌倉インターナショナルFCの監督に就任し、同クラブではブランディング責任者も務めている。その他、執筆やNPO法人 love.fútbol Japanで理事を務めるなど、サッカーを軸に多岐にわたる活動を行っている。著書に『競争闘争理論 サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか』。鍼灸師国家資格保持。