【岩尾憲インタビュー】「レッズというクラブは、タイトル獲得が義務」
DAZNとパートナーメディアで構成する「DAZN Jリーグ推進委員会」が2022シーズンの開幕を告げる特別企画。フットボリスタでは今シーズンから浦和レッズに加入した岩尾憲選手のインタビューをお届けする。徳島ヴォルティスから移籍を決意した際の心境、レッズでの役割、そして京都サンガF.C.との開幕戦に向けた意気込みについて話を聞いた。
ひとつの夢が叶う瞬間
――沖縄キャンプは浦和レッズというチームを知るうえで重要な時間だったと思います。岩尾選手の目に、チームはどう映りましたか?
「リカルド(・ロドリゲス)監督のやりたいサッカーについて、たくさんの選手といい話し合いができました。江坂(任)選手、関根(貴大)選手、岩波(拓也)選手……。もともといる選手を中心に『もっとこうしたい』『もっとこうした方がいいんじゃないか』といった話ができたのは、すごく良かったと思います。話し合いながら、プレー中に解決していくことも徐々にでき始めている。そもそも地頭がいいというか、いろいろな経験を積んできた選手が多いので、そこに関してはすごくいいなと思っています」
――6年間過ごした徳島ヴォルティスを離れることは、「簡単な決断ではなかった」と新体制発表記者会見で話していました。一方で、浦和レッズからオファーが届いた時の率直な気持ちは、どうだったのでしょう?
「それは素直に、すごく嬉しかったですね。自分のようなキャリアの選手が、この年になって浦和レッズというビッグクラブからオファーをいただけたのは、すごく光栄なこと。監督が(徳島でともに戦った)リカルドだということはあるにせよ、日本を代表する選手たちが集まるクラブが自分を評価してくれたことに高揚感を覚えましたし、自分がやってきたことは間違っていなかった、評価してもらえるところまで来たんだな、という喜びを感じました」
――待ちに待ったチャンス、待ち焦がれていたオファー、という感じですか? それとも少し違いますか?
「そうですね……僕は規模の大きいクラブに移籍することがステップアップだとは思っていなくて。移籍した先で何をしたいのかというところで、ステップアップになるかどうかを大事にしています。そういった意味では、大きいクラブに行けたから成功というわけではないのですが、サッカーを始めた頃から知っているクラブのエンブレムを付けてプレーできるのは、かつてのサッカー少年にとって、ひとつの夢が叶う瞬間ではありました」
――徳島時代にJ1からオファーが届いたにもかかわらず、断ったことがあったそうですね。そこにはどんな考えや価値観があり、今回の決断の際にはどんな心境の変化があったんですか?
「徳島にリカルド監督がやって来て、僕もキャプテンを任されるようになってから、考えさせられることが多かったんですね。Jリーガーって個人事業主なんですけど。個人事業主は一人ひとりが社長なので、業績を上げれば自ずと収入も増えるし、他のクラブからも声がかかる。そういう職業形態にもかかわらず、チームとしてひとつの目標を追うという、相容れないものがあると思っていて。そこに疑問を感じてから、『チームって何なんだろう?』とか、『徳島ヴォルティスというチームで目標を目指す意味』とか、『ヴォルティスがもっと前進していくことで何が生まれるのか』とか、『そこで自分がどんな恩恵を受けられるのか』とか、いろいろ考えさせられました。その中で、ありがたいオファーもいただきましたが、移籍してしまうとできない経験もある。キャプテンという立場や、ヴォルティスに長年在籍しているからこそ追求できることがあって、その頃は、それが僕の中で意味をなしていたので、お断りさせていただいていたんです」
――ところが、今回はオファーを受け入れました。
「何が違うのかと言われると、正直に言って大きな差はないんです。ただ、日本を代表する選手、J1で長くキャリアを積んできた選手、僕と同じようにJ2から上がってきた選手と、いろいろな選手が在籍する中で、日本を代表するクラブがチームをどういう風に捉えているのか見てみたくなったんです。その一員として自分がどう振る舞えるのか、6年間かけて積み上げてきたものを組織やチームに対してどう生かせるのか。そういったところに興味を引かれたというのが大きな要因です」
――6年の在籍期間のうち5年間はキャプテンを務め、難しい時期をみんなで乗り越えて、J1でもプレーした。キャプテンとしてひと区切り、といったタイミング的な要素も大きかったのでしょうか?
「おっしゃる通りですね。徳島はJ2に落ちてしまいましたが、今年もプレーするという選択肢はありました。自分にとって何がいいのかはもちろん、クラブにとって何がいいのだろうかと考えました。おそらく徳島に残れば、キャプテンか、それに近い立場を務めることになったと思うんですけど、それがチームにとってどうなのか。自分にとっても、キャプテンをやり続けることが果たしていいのか。潮時なんじゃないかというのも正直感じました。自分の理想を追い求めることが浦和でできないわけじゃないですし、徳島にもまだまだ進んでいってほしいと心の底から思っているので。そこで移籍を決めました」
――昨季は、湘南ベルマーレ時代の13年以来8年ぶりとなるJ1でシーズンを通してピッチに立ちました。その舞台を経験してみて、面白いな、もっとうまくなれるな、ACL(AFCチャンピオンズリーグ)を経験したらどうなるんだろう、といった、矢印を自分に向けた時の成長や楽しみも感じたりはしませんでしたか?
「J1で感じたのは、戦況の変化が著しいということ。プランを持って入っても、そのプランを90分通して貫くのが難しい。その要因として、選手が主体的に修正したり、対応してきたり。給水タイムに策を練られたり、交代選手のタレント性で試合の潮目が変わったりと、いろいろな要因があるんですけど、その変化が激しいことは感じていて、だからこそ、面白みもあるなと。個人のところでも、球際やルーズボールの駆け引きはJ2とは違ったものがあるので、そこも面白かった。おっしゃる通り、ACLという国際大会で、自分がどれくらいやれるのかにも興味があります。そういったところも含めて、挑戦する価値がある、人生を懸けてやるだけの意味や価値があるなと」
――戦術的な駆け引きがうまかったチーム、戦ってみて衝撃を受けたチームはどこですか? 浦和の一員となって再び対戦できるのが楽しみなチームは?
「川崎フロンターレ、横浜F・マリノス、ヴィッセル神戸、鹿島アントラーズ……」
――すべて昨季の上位チームですね。
「上位チームとは対戦してみて、歯が立たない部分がかなりあったので。浦和の一員になって、どんな試合展開に持っていけるのか、その中で自分が周りをどういう風に生かし、生かされるのか、すごく楽しみですね。次は勝ちたいな、と飢えている感じがあります」
――J1でプレーしてみて、手応えを掴めた部分、自信を深めた部分は?
「タフな選手が多いので、ポジショニングを間違えて捕まると、がっつり潰されてしまうことがある。でも、ポジショニングをちゃんと取って、いい体の向きで視野を確保して、次のプレーをイメージしておくことができれば、ポゼッションできるなと思いました。守備に関しても、いい駆け引きができれば、インターセプトやセカンドボールを回収することができたので、そういったところをより増やしていければと。コンタクトを武器にしている選手ではないので、相手の土俵に乗らないようなプレーが増やしていければいいんじゃないか、と思っています」
――昨年、ダニエル・ポヤトス監督のサッカーを経験し、今年は再びリカルド監督の指導を受けています。ご自身のサッカー観に広がりを感じたり、変化を感じますか?
「いや、ふたりのサッカーは、似て非なるものだな、というのが率直な感想ですね。ダニエル監督から教えていただいた個人戦術がリカルド監督のサッカーでも生かせる瞬間があるので、そこは個人の成長として感じていますが、戦術という意味ではまったく別のもの。だから、ダニエル監督からインスパイアされて、それが生かせるという感覚はないですね」
――個人戦術で生かせる部分というのは?
「ポジショニングやボールを受けに行くタイミング、体の向き。あとは味方のポジショニングに関しても、リカルド監督がOKとしているところと、ダニエル監督がOKとしていないところがあるので、うまく還元できたら。特にアタッキングサードでの崩しは改善の余地があると思っていて、そこに関してはダニエル監督のエッセンスが生きるかもしれないなと。ただ、これは僕の感覚でしかわからない。他のアイディアがあるのであれば、そっちでもいいと思います。要は、ゴールが入ればいいので。そこは話し合いながら、いろいろな形を作っていきたいですね」
『世界が戦っているレベルと、お前が戦っているレベルは違う』
――2月19日の開幕戦の相手は京都サンガF.C.です。監督の曺貴裁さんは岩尾選手にとって湘南時代の監督ですが、どんな存在ですか?
「時に厳しく、時に優しく。プロフェッショナルとしてプレーしていくために必要なこと、土台となることを教えてくれた印象が強いですね。今でもたまに心の中で曺さんの言葉が出てきたりするぐらい、インスパイアされた部分があります。僕にとっては、プロキャリアを語るうえで欠かせない、いわゆる恩師です」
――プレシーズンのトルコキャンプでは、すごく怒られたそうですね。
「苦い経験を思い出させますねえ(苦笑)。そうなんです、トルコキャンプでの最初の練習試合で、スコアが1-1だったのかな、ゲーム終盤に相手がカウンターに入ろうとしたとき、僕が一の矢となってカウンター阻止に行ったんです。でも、結果として相手に広いほうのスペースを与えてしまったんですね。切り方を間違えてしまって。狭いほうに運ばせれば良かったんですけれど、大きな展開につながって、ゴールを決められて。そのときにグラウンドで『いつまでそんなことやってるんだ!』と言われて」
――厳しく指摘されたんですね。
「ホテルに戻ってからも、そのシーンの映像を見返しながら、すごく怒られたのを覚えています。その現象自体もそうですし、勝負に対して、僕自身は一生懸命やっているつもりだったんですけど、『世界が戦っているレベルと、お前が戦っているレベルは違う』といった話をされて。その次の日、スカウトの方が『世界は戦っている』というムービーを作ってくれたんです。そこには、球際の激しいシーンとか、互いに怒りを露わにしながらプレーしているシーンがたくさん収められていました。自分の中での『戦っている』と世界の『戦っている』に大きな差があることを実感させられて。ここで変わらなきゃダメだなって。そのキャンプ中の2試合目、3試合目ぐらいから、球際を含めて、曺さんからすごく褒めてもらえるようになって。今もあのときの出来事が大事な礎になっている感覚があります」
――当時、ボランチとして絶対的な存在だったのが、同期入団の永木亮太選手でした。実は明後日、同じ企画で永木選手にインタビューするのですが、彼については、どんな思いを持っていますか?
「亮太は(JFA・Jリーグ)特別指定選手として大学4年の時からJ1で通用していて、湘南で素晴らしいキャリアを築いて、鹿島に旅立って行った。本人にはなかなか言えないですけど、常に大きな刺激を受けています。彼はちょっとやそっとの痛みではピッチから出ない。そういったタフさだったり。普段は天然なんですけど、試合になるとすごく負けず嫌いで、闘う姿勢を前面に出す。そういう勝負師としての姿は自分にないもので、すごく影響を受けました。だから対戦を本当に楽しみにしています。お互い年は取りましたが、まだまだ第一線で、刺激し合いながらやっていきたいと思います」
――この言葉を永木選手に伝えていいですか?
「ぜひ、よろしくお願いします(笑)」
――湘南時代の最初の2年間はケガに苦しみ、3度も手術されています。「なぜ、俺ばっかり」といったもどかしさも抱えていたのではないでしょうか?
「小学生の頃から『プロサッカー選手になりたい』と言い続けていて。それこそ卒業文集にも書きました。プロサッカー選手になることが僕の目標で、実際にプロサッカー選手になれたわけです。湘南から契約書をもらって、嬉しくて泣いたのを覚えているんですけど、夢が叶ったものの、その先のことをまったくイメージできていなかったんですね」
――プロになって満足してしまったと。
「『え、これからどうすればいいんだろう?』って。そんな2年間で、3回ケガをして手術したので。これは『辞めろ』と言われているのか、『自分に対して問い直せ』と言われているのか。そんな感覚に陥って。3度目の手術の時、当時の日本代表選手の書籍を病室で読み漁りました。『自分はどうなりたいのか』『ここからどうするんだ』ということをすごく考える時間になったんです。自分は無名校出身で、そういった高校からプロになれた要因って何だろうと考えた時、手前味噌ですけど、努力する、人よりやることには自信があった。目標さえ決めてしまえば、そこに向かって貫く気持ちと根性と、努力する才能はあるんじゃないかと思って。有名校で、監督や先輩にやらされて、それに付いていけるかどうかではなく、自分で考えて、設定して、貫くしか僕には生きる道がなかった。この生き方をしてきたのは今後の武器になるなって。そこで『日本代表になる』という目標を設定しました。そこからですね、僕のプロサッカー選手としての本当のキャリアが始まったのは」
――実は次にうかがおうと思っていた質問があります。サッカー専門誌が毎年出している選手名鑑のアンケートの中に、「将来の夢」という項目があって。岩尾選手は、プロ1、2年目は「高校の先生になってサッカーを指導する」と答えていますが、プロ3、4年目は「日本代表になる」と夢がガラッと変わっていた。2年目から3年目の間に、何があったのかと思っていたところです。
「病室で見つめ直したんですね(笑)」
――子供の頃からの夢だったプロサッカー選手になれたのに、将来の夢として「教員になりたい」と書かれているのが興味深いです。日本体育大へは、プロサッカー選手になるために進んだわけではなく?
「教員になるつもりで進学しました。サッカーをやらないつもりでいたので。ただ、両親から、『3食出て安心だから寮に入りなさい』と言われたんですよ。でも、スポーツ推薦しか入れない寮で、セレクションに受かった優秀な選手しかいなくて。そこに両親のツテで入ることができたので、結果的に辞められない空気になってしまって、サッカー部に入らざるを得なかった。だから、大学でサッカーを続けることになったのは、環境のおかげですね」
――高校3年生の時、全国高校サッカー選手権の予選で桐生第一高に2-6で負けたじゃないですか。
「よくご存じですね(笑)。サッカーの神様はいないと思いました(苦笑)。プロは難しいだろうなって」
――なるほど。それでサッカーを辞めるつもりで大学に進学したものの、運命のいたずらでサッカーを続けることになって。どのタイミングで再びプロになりたいと思ったんですか?
「親からも『せっかくやるなら一生懸命やりなさい』と言われていましたし、『バイトをさせるために進学させたわけじゃない』と仕送りをもらっていました。なので、サッカーに打ち込んでいたんですけど、やっぱり楽しかったんですよね、大学サッカーが。そうしたら、たまたま青山学院大との試合で、今の横浜FCにいる武田英二郎選手を見に来ていた湘南のスカウトやコーチ、それこそ曺さんなんですけど、対戦相手の僕を見て『あいつを練習生で呼んでみよう』ということになって。『プロになれるかもしれない』と思ったのは、その時ですね。教員になることを軸として考えていたのですが、頭の片隅にあったプロへの思いが大きくなり始めた、という感じです」
――練習生として湘南に通うようになって、認められるまでにずいぶん時間がかかったんですよね?
「半年ぐらい。過去最長と言われました(笑)」
――本当にプロになれるのか不安を抱えながら練習に参加して、ようやく内定をもらえて涙して、燃え尽きてしまったと。
「その通りです(苦笑)」
――プロ3年目となる13年、初のJ1でのチャレンジは7試合しか出番がありませんでしたが、14年のJ2では23試合に出場してJ1復帰に貢献しました。そこで15年、J1に再チャレンジする機会があったのに、なぜJ2の水戸ホーリーホックに?
「ご存じの通り、当時の湘南のサッカーはすごくアグレッシブで、人がどんどん追い越していってゴールに迫るサッカーをしていました。自分のタイプに合っているか、合ってないかで言うと、合ってないというのを正直感じていたんです。もちろん、プロなので、合わせにいかなきゃいけないですし、学ばなきゃいけない。ただ、遠藤保仁選手に憧れていたんですけど、それを実戦で検証できない部分もかなりあって。僕だったら、遠藤選手だったら、そこにボールを入れないけれど、チームのコンセプト上、入れなきゃいけなかったり。それにボランチの1番手や2番手の選手でもなかったので、それなら水戸で実戦経験を積んで、自分の考えやサッカー観がどれくらい正しいのか試せるんじゃないかって。水戸のフロントの方にも『ぜひ、それをやってほしい』と言っていただいたので、移籍しました」
――15年の水戸で初めてフルシーズンにわたって出場しました。検証はうまくいったんですか?
「自分の感覚でうまくいったシーンも作れたので、それに関しては満足できるシーズンでした。非常にいいステップを踏ませていただいて、水戸には本当に感謝しています。ただ、チームを勝たせるとか、試合の流れを読む次元までは行けなかった。勝負に関してはまだまだ足りないことを痛感した1年でもありました」
――そして翌年、徳島に完全移籍。6年間プレーして、自身のプレースタイルをさらに作り上げて行くわけですね。こうして振り返って、ずいぶん遠回りしたな、という感覚もありますか? それとも自分に必要なステップを踏んできたから今があるという感覚でしょうか?
「そこは間違いなく後者ですね。すぐにJ1で活躍したり、今は若くして海を渡る選手もいますけど、この歩みが自分にとって最短だったと思っています」
――34歳を迎えるこのシーズンに、タイトルを狙えるチームに来ました。あらためて、どんな思いや覚悟を胸に、どういうシーズンにしていきたいですか?
「レッズというクラブは、タイトル獲得が義務であり、勝利至上主義だと思います。そこに対して自分がどんなパフォーマンスをするのかを一番大事にしています。楽をして勝利は得られない。しっかりとしたプロセスを経て、確実に前進していくことでしか勝利は得られない。月並みですが、1日1日の練習とか、自分の言動や細かいことの積み重ねが大きな成果に繋がっていくので、そういったところを大事にして取り組んでいきたいと思います」
Photos: Getty Images
2022明治安田生命J1リーグ第1節
京都サンガF.C. vs. 浦和レッズ(サンガスタジアム by KYOCERA)
2022年2月19日(土)14時キックオフ
DAZNにて独占ライブ配信
Profile
飯尾 篤史
大学卒業後、編集プロダクションを経て、『週刊サッカーダイジェスト』の編集記者に。2012年からフリーランスに転身し、W杯やオリンピックをはじめ、国内外のサッカーシーンを中心に精力的な取材活動を続けている。著書に『黄金の1年 一流Jリーガー19人が明かす分岐点』『残心 Jリーガー中村憲剛の挑戦と挫折の1700日』、構成として岡崎慎司『未到 奇跡の一年』などがある。