「J1で結果を残したい」横浜F・マリノス角田涼太朗が大学サッカー卒業を早めた理由
今年も多くの大卒Jリーガーが誕生する中、”一足先”にプロの舞台へ踏み入った選手がいる。横浜F・マリノスの角田涼太朗だ。筑波大学4年次の2021年夏にプロ契約を結び(内定は大学3年の10月)、部を離れてF・マリノスに合流した。
前橋育英高等学校では2年からレギュラーCBとして活躍し、選手権制覇にも貢献した。その看板を引っさげて進学した筑波大学で1年からレギュラーの座をつかむと、U-20代表にも選出され、一躍大学サッカーを代表するDFに。
順風満帆な道を歩んできた角田だが、なぜ半年早くプロへ進む道を選んだのか。そこには彼の飽くなき成長への欲求があった。
上のレベルでやりたいモチベーションが高まった
――あらためて、F・マリノスへ入団するまでの経緯を教えてください。
「大学に入った段階で、特別指定をもらってJリーグでもプレーをしたいという思いはありました。ありがたいことに1年生の頃から試合に出させてもらって、今、Jリーグや海外で戦っている選手と対峙し、選抜では一緒にプレーする中で、上のレベルでやりたいというモチベーションが強くなったんです。学年が上がるにつれてそう考える機会が増え、そのタイミングでF・マリノスからオファーをもらいました。練習参加をせずに入団を決めたのですが、映像で見ていても魅力的なサッカーをすると思っていたことが大きな決め手でした」
――プロに早く行きたいという思いがあった。
「『どうしてもプロへ』というよりも、高いレベルで戦いたかったことと、環境を変えたいという思いが大きかったです。筑波では1年生から試合に出ている分、居心地も良かった。言ってしまえば、自分が中心となってサッカーができる環境でした。それはありがたいし充実感もあるのですが、その先のキャリアを考えた時どうなんだろう、と。もちろん試合に出られると思って半年早く来たわけではなく、この環境で自分は何ができるかというのを早く試したかったという思いがあります。
同期、同世代で一緒にプレーしていた選手がJリーグの舞台に立っている姿を見ると、なにくそ、と思いますし、自分は中学生の同期に橋岡大樹がいます。彼は本当に凄いですよね。ずっと出ていて、海外に行って。負けられないという思いもあります」
――角田選手は浦和ジュニアユース(JY)から前橋育英へ進みましたが、結果的に選手権で優勝し、自身の成長に繋がったのかなと。“環境を変える”ことでの成功体験が今回の選択にも繋がったように思えます。
「浦和のユースには上がれなくて、前橋育英を選びました。小さい頃からテレビで見ていて、選手権の舞台に憧れがあり、全国大会の常連校に行きたいという思いは強かったからです。ただ、当時の埼玉県は毎年異なる高校が代表になっていたので、選ぶのが難しかった。そんな中、レッズJYのコーチの知り合いの方が前橋育英にいたので、その縁で練習参加をして、入学することになりました。
初めて親元を離れて生活する中で、得られたものは大きかったですね。1年生の頃はトップチームに1回も絡めませんでしたが、同期に恵まれたと思います。田部井兄弟(ザスパクサツ群馬の田部井悠と横浜FCの田部井涼)は当時から本当に高みを見ていて、自分たちを引っ張ってくれましたし、1年生の頃からトップで試合に出ていた渡邊泰基(アルビレックス新潟)がいて。他にもJの育成組織から来た選手がたくさんいて、彼らと一緒に過ごせた時間は貴重だったなと思います。僕は2年生から試合に出させてもらったのですが、中学であまり試合に出ていなかった分、試合に出ると成長できるということも強く感じました」
――筑波大学はどういう経緯で選んだのですか?
「国立なので経済面で親に負担をかけることもないですし、進路選びをしていた当時、筑波が強豪だったからです。ただ、スポーツ推薦の枠が5つしかなく、そこはチャレンジでした。行きたいとは思っていましたけど、本当に自分が筑波に行くことを想像できいていたわけではなかったですね」
三笘薫とプレーできたのはプラスだった
――筑波は大学サッカー界で見ても特殊な組織かなと。全員がプロを目指すわけでもなく、それぞれが経験してきたサッカーのレベルの差も大きいです。……
Profile
竹中 玲央奈
“現場主義”を貫く1989年生まれのロンドン世代。大学在学時に風間八宏率いる筑波大学に魅せられ取材活動を開始。2012年から2016年までサッカー専門誌『エル・ゴラッソ 』で湘南と川崎Fを担当し、以後は大学サッカーを中心に中学、高校、女子と幅広い現場に足を運ぶ。㈱Link Sports スポーツデジタルマーケティング部部長。複数の自社メディアや外部スポーツコンテンツ・広告の制作にも携わる。愛するクラブはヴェルダー・ブレーメン。