昨年11月12日、ダニエウ・アウベスのバルセロナ復帰が発表された。2002年にバイーアからセビージャに移籍して欧州初上陸を果たすと、2008年にバルセロナへステップアップ。8年間にわたりリオネル・メッシ、シャビ・エルナンデスらと右サイドから黄金期を支えた超攻撃的サイドバックは、ユベントスとパリ・サンジェルマンを経てサンパウロに加入し、一時母国ブラジルへ戻っていた。
セレソンでも長年活躍を続け、オーバーエイジ枠で参戦した東京五輪の金メダルで選手キャリアにおける通算タイトル数を44に伸ばした経験豊富な38歳。5年半ぶりに帰還したバルセロナでは今年に入って選手登録が完了し、メッシが去りシャビが率いる中、変革期を迎えている古巣の救世主として2度目のデビューが待たれるばかりだ。再挑戦の行方を占うべく、ブラジル在住ジャーナリストの藤原清美氏にサンパウロ入団からバルセロナ移籍までの“ダニエウ”のキャリアを振り返ってもらった。
新境地「セグンド・ボランチ」を開拓
ブラジル代表のキャプテンとして戦った2019年コパ・アメリカ優勝後の8月、ダニエウは実に18年ぶりに、ブラジルサッカーに復帰した。移籍先は少年時代からの夢だったというサンパウロFC。ホームスタジアムであるモルンビーでのお披露目イベントでは、クラブのレジェンドであるカカーやライー、ルイス・ファビアーノたちに囲まれ、4万5000人のサポーターによる大声援の中、背番号10のシャツを受け取った。
当時36歳。前述のコパ・アメリカで大会MVPに輝いた彼は、その期待に違わない活躍を始める。デビュー戦となった8月19日、ブラジル全国選手権セアラー戦で、「セグンド・ボランチ」として登場すると、さっそくゴールを決めてチームの勝利に貢献した。
[4-3-3]における中盤逆三角形の一角で司令塔を担うセグンド・ボランチを任されたのは、同時期にクラブが右サイドバックのファンフラン(元スペイン代表)を獲得したのも理由の1つだが、ダニエウ自身がその役割でプレーすることを望んでいたからだ。当初指揮を執っていたクッカ監督の下ではそれ以外にも、本職の右SB、さらにはトップ下など、チーム状況によって柔軟に対応していた。
それはダニエウの経歴の賜だろう。プロデビューしたブラジルのバイーアと、ヨーロッパでの最初のクラブとなったセビージャでは、右SBとして頭角を現した。バルセロナに移籍してからは、名将ペップ・グアルディオラ監督の下、右SBのポジションを起点にセグンド・ボランチ、または右ウイング的にプレーするようになった。
ユベントスでは5バックの一翼を担う時もあれば、サイドハーフとしてチャンスメイクを任される時もあった。戦術家マッシミリアーノ・アッレグリ監督が併用した[5-3-2]と[4-2-3-1]の両システムで融通を利かせ、チームが2017年のCL決勝へ到達するのを手助けしている。
同年に加入したパリ・サンジェルマンでは右SBでありながら、ユーティリティプレーヤーとして、より自由に動き回ることを許される。ダニエウは当時から飽くなき探究心を口にしていた。
「試合でより良いプレーをするために、僕はいつでも研究しているんだ。だから、どのポジションでもできる。PSGではトーマス・トゥヘル監督が、僕を典型的な右SBとして起用するのはもったいないと言っていたんだ。右サイドだけでは小さ過ぎる、僕には試合の間中、いつでもボールに触れる自由を与えなければ、とね」
そしてサンパウロでは加入直後の2019年9月、新たにフェルナンド・ジニスが監督に就任したことが、ダニエウの転機になる。キャリアを通じて右サイドを主戦場としてきた彼を、ジニスは本格的に中盤へコンバートさせたのだ。
「このチームにおける、彼のベストポジションを見つけたんだ。それはピッチの中央だ。そうすれば、彼は試合を通して攻撃参加できる」(ジニス)
セグンド・ボランチとして攻撃の起点となり、縦横無尽に顔を出すことでダニエウは覚醒。采配に応える変幻自在のパフォーマンスに、ジニスは賛辞を送るばかりだった。……
Profile
藤原 清美
2001年、リオデジャネイロに拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特にサッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のTV・執筆等で成果を発表している。W杯6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTube『Planeta Kiyomi』も運営中。