名門ハイデュクの新監督はクイズ王?選手経験ゼロのリトアニア人が復権への「ファイナルアンサー」
11月2日、ディナモ・ザグレブと並ぶクロアチアの名門ハイデュク・スプリトに新監督が就任した。バルダス・ダムブラウスカス、44歳。プロ選手経験を持たないリトアニア人で、コーチング業を学んだイギリスに渡るためにクイズ番組で賞金を稼いだという変わり種だ。就任後5戦5勝でファンから「ミスター100%」と称えられるこの男、注目である。
「発行部数世界一の日刊紙はどこの国のもの?」
2002年4月、25歳のバルダス・ダムブラウスカスは、リトアニアのクイズ番組『6つのゼロ-ミリオネア』(Šeši nuliai – milijonas)に挑戦した。連続正解で賞金が積み上がるラストステージの9問目で「日本」という正解が導き出せず、夢の高額賞金には手が届かなかった。それでもクイズ番組で獲得した4000リタス(約15万円)は、「サッカーコーチになりたい」という少年時代からの夢に繋がる頭金となった。
「超」がつくほどの読書家であるダムブラウスカス青年は、今度はリトアニア版『クイズ・ミリオネア』(Kas laimės milijoną?)に挑戦。そこでは「第1回アカデミー主演男優賞を受賞した俳優は誰?」という難問が壁となる。「答えは『エミール・ヤニングス』。それが誰なのかいまだにわからないよ」と19年前の経験を振り返る彼は現在、クロアチアの名門クラブ、ハイデュク・スプリトを率いる異色の指導者だ。
13歳の夢。転機はガールフレンドの相談
リトアニアがソ連を構成するいち共和国だった1977年、人口5000人に満たない北部の小都市、パクルオイスでダムブラウスカスは生を受けた。「第二の宗教」と言われるほどバスケットボールが盛んな同国において、サッカーはマイナースポーツの位置づけだ。市内にはサッカースクールが皆無で、学校にもサッカー部は存在しなかった。趣味としてストリートサッカーを嗜みながら、平凡な長距離選手として陸上部に所属していたという。
サッカー愛を内に秘めながらも学ぶ場がなかった少年時代を過ごしていたが、1991年にリトアニアが独立したのを機にサッカークラブが地元にも誕生。大学生だった18歳で入団し、リトアニア3部リーグを舞台にストライカーとしてプレーした。さりとて「プレーヤーとして自分が大成するのは現実的ではない」と早くに悟っていた彼は、13歳の時に「将来はサッカーコーチをなりたい」との夢を描いた。同時に「選手経験もないのにどうやってコーチになれるのか?」と絶えず自問自答していた。
転機が訪れたのは25歳。高校時代から付き合っているガールフレンドが「就職難のリトアニアを離れ、イギリスに移住したい」とアマチュアのサッカー選手だったダムブラウスカスに相談。EU加盟前ということもあってイギリス移住は学生ビザを取得するしかなく、その資金集めとして2人は4カ月間、ノルウェーで出稼ぎした。それでも金額的に不十分なため、ダムブラウスカスは博学ぶりを武器にクイズ番組に挑戦。賞金に加えて愛車も売却したことで、ロンドンへの渡航費と当面の生活費を捻出する。リトアニアを離れたのは日韓W杯の直後、2002年夏のことだった。
新たな生活の立ち上げは大変だった。
語学学校の学生寮を出た後はアルバイトに励み、郵便配達や新聞配達、スーパーマーケットでのコーヒー販売員、ベビーシッターや塗装工などで糊口をしのいだという。「イングランドならば選手経験がなくてもコーチになれる」と考えた彼は、稼いだお金を受講料や書籍に投資する。移住2年目にサッカーコーチのアカデミーに初めて登録。修了後はロンドン・メトロポリタン大学でスポーツ科学とコーチング技術を学び、UEFA Bライセンスを取得した。「サッカーの母国」で得られた最初のコーチ仕事といえば、ロンドン最貧地区の支援プロジェクトの一環として、ストリートチルドレンや養護施設の子どもたちを相手に週2回サッカーを教えることだった。
「殺人事件が頻繁に起こり、通りに犯罪者があふれかえるような地区だったけど、そのすべてが自己形成に役立ったし、厳しい条件下だからこそ多くのことを学べたと思う。ロンドンは完全なる多文化都市で、あらゆる国籍や宗教の人々と出会うことができる。風貌や身なりで人を判断するのではなく、その人の背後にあるものは何なのか、その人はどんな人物なのかを知ることが重要だとわかるんだ。それはコーチ業にとって最も大事なことなんだよ」
いくつかのプロジェクトに携わったあとはフルアム、マンチェスター・ユナイテッド、ブレントフォードのユースアカデミーで経験を積む。2007年に9部リーグのロンドン・タイガーズの監督に就任すると、FAカップ出場を含むクラブ史上最高の成績を残した。しかし、イングランドでも「プロレベルの選手キャリアがなければプロクラブを率いることはほぼ不可能だ」と自覚していた。
「リトアニアのビラス・ボアス」の冒険
そんな中、ダムブラウスカスはリトアニア語で綴ったサッカーブログがきっかけで母国でインターンシップを始め、2009年にはリトアニアU-17代表の監督に指名。翌年12月には家族を引き連れて母国に完全帰還することを決意した。アシスタント時代を経たのちにエクラナスやジャルギリスといった国内の強豪を率いては数々のタイトルを獲得し、30代のうちに指導者としての実績と名声を勝ち獲っていく。
そんな彼についたあだ名は、同い年のポルトガル人監督にちなんだ「リトアニアのアンドレ・ビラス・ボアス」。
しかしながら、欧州で「サッカー後進国」とみなされるリトアニアから、ビラス・ボアスのようなステップアップを図ることなど困難な話だ。しばらくは隣国ラトビアの新興クラブ、RFSの指揮に留まっていたダムブラウスカスだったが、2020年2月に新たな指導者人生の歯車が動き出した。
クロアチアの首都ザグレブのベッドタウン、ベリカ・ゴリツァに本拠地を置くHNKゴリツァは、18-19シーズンから1部昇格するや、現在は中堅クラブとして確固たる地位を築いている。最大の立役者は副会長兼SDを務めたリトアニア人のミンダウガス・ニコリチュース。スコットランドのハート・オブ・ミドロシアン(通称ハーツ)で働いたのち、破産したジャルギリスを再興。8年間で4度のリトアニアリーグ優勝に導いた敏腕ディレクターだ。
ジャルギリスのチーム作りにおいて、ニコリチュースがもっぱら頼りにしてきたのがクロアチア人だった。7年間で10人もの助っ人をクロアチアから引っ張ることで同国と強力なパイプを築くと、2018年1月にリトアニアの投資家を引き連れる形でゴリツァの経営に参加。独自のネットワークを活かし、低コストで選手を発掘・調達する能力に長けた彼は、あっという間に競争力あるチームを作り出した。19-20シーズン途中に新監督を探すことになると、ジャルギリスで一緒に働いた同胞にコンタクトした。ゴリツァ監督に就任した頃をダムブラウスカスはこう振り返る。
「もしバスケットボールの監督として招かれていたら、おそらく周囲は異なる目で私を見てくれたことだろう。しかし、私はどこでも『今からこいつが俺たちにバスケットボールを教えてくれるのか?』と言われてしまう。でも、招かれた国に対して敬意を表するにはハードワークが一番だ。だからこそ地元の監督より3倍は働かねばならないんだ!」
チェス愛好家で、尊敬するのはフィル・ジャクソン
最新テクノロジーを利用した分析を得意とするダムブラウスカスは、相手チームの弱点を徹底的にあぶり出し、それに合わせた戦術トレーニングを連日用意する指導者だ。彼自身はワーカホリックの完璧主義者だが、柔軟な選手起用を図るためにも選手たちとは家族的なムードを作り、相互理解を深めていく。ロールモデルとして名前を挙げる指導者が、チームの和を重視しながらNBAで11度の優勝を果たしたバスケコーチのフィル・ジャクソンだ。
また、ダムブラウスカスはチェスを熱愛していることでも知られ、リトアニアの早指しチェス選手権にも出場した実力者だ。ヨーロッパでチェスはスポーツとして捉えられ、彼が人生でチェスをプレーした回数はサッカーのそれを上回るという。……
Profile
長束 恭行
1973年生まれ。1997年、現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて銀行を退職。2001年からは10年間のザグレブ生活を通して旧ユーゴ諸国のサッカーを追った。2011年から4年間はリトアニアを拠点に東欧諸国を取材。取材レポートを一冊にまとめた『東欧サッカークロニクル』(カンゼン)では2018年度ミズノスポーツライター優秀賞を受賞した。近著に『もえるバトレニ モドリッチと仲間たちの夢のカタール大冒険譚』(小社刊)。