攻のクライファートと守のスタム。オランダ代表が生んだ2人の“破格”
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華やかなタレントが織りなすアタッキングフットボールで、常に一目置かれ続けてきたオランダ代表。そんな“オランイェ”(オランダ代表の愛称)で1990年代後半~2000年代前半にかけて、前線と後方の主役を張ったパトリック・クライファートとヤープ・スタムの“破格”ぶりをプレーバックする。
アヤックス産のファン・バステン2世
オランダ初のビッグタイトルが1988年の欧州選手権(現EURO)優勝だった。1974、1978年のワールドカップでは連続して決勝に進んでいるがいずれも準優勝である。
1988年のオランダはそれまでと少し違っていた。監督は1974年と同じリヌス・ミケルスで、攻撃的なスタイルも変わらないが、スリナム系選手が活躍している。ルート・フリットとフランク・ライカールトが新たな力を加えていた。
パトリック・クライファートも父親がスリナム出身だ。7歳からアヤックスの下部組織で育った。
1994年にルイス・ファン・ハール監督がトップチームに引き上げている。当時のアヤックスはヨーロッパ最強のチームだ。フランク・デ・ブール、ロナルド・デ・ブールの兄弟、フィンランド人のヤリ・リトマネン、ダニー・ブリント、フィニディ・ジョージ、マルク・オーフェルマルスらが強烈な攻撃サッカーを展開していた。
[3-4-3]システムのCFはロナルド・デ・ブールがレギュラーだったが、若手のヌワンコ・カヌとクライファートが台頭してきた。1994-95シーズンのCLファイナルでは、70分から出場したクライファートが85分に決勝点をゲット。このシーズンを最後に引退したライカールトからのパスだった。
188cmの長身、柔らかい動きとボールコントロール。柔と剛を併せ持つクライファートはマルコ・ファン・バステン2世と呼ばれて注目を集めている。ただ、折しもボスマン判決が下って選手の大移動が始まっていた。アヤックスは最大の草刈り場となり、エドガー・ダービッツ、クラレンス・セードルフなどの若手を含む主力が次々に移籍してしまい、マイティ・アヤックスはあっというまに解体されてしまう。
クライファートも1997年にミランへ移籍したが、6ゴールと振るわず。交通事故を起こして非難を浴び、わずか1シーズンでバルセロナへ移った。
バルセロナでは恩師ファン・ハールと再会。リバウド、ルイス・フィーゴと3トップを形成し、1998-99シーズンのリーグ優勝に貢献。1999-00は優勝を逃したがチーム最多15ゴールを決めた。2001-02はハビエル・サビオラ、リバウドとともに「トリデンテ」と呼ばれるトリオを形成している。
難しいシュートをいともたやすく決めてしまう半面、簡単なシュートを外してしまうこともあり、才能の大きさと実績がいま一つ釣り合っていない印象は最後まで残るが、オランダが生んだスーパーなストライカーだった。
プレーエリアの広さが異次元。破格のストライカー
大きくて速く柔らかい。クライファートはCFとして10代のころから完成されていた。
右利きだが左足のボレーシュートも巧く、クロスボールに合わせる感覚が素晴らしい。ジャンプしながらかかとやアウトサイド、つま先に当ててゴールする。大きな体を器用に折りたたむようにボールにアジャストする能力が高かった。ドリブルシュートもあればヘディングもある。ゴールのデパートのような万能感はファン・バステンの後継者らしい。
クライファートには破格なイメージがある。長いリーチを利用したプレーが独特で、それがスケールの大きさに繋がっていた。
アヤックス時代のCL決勝点がそうで、ライカールトからパスを受けた瞬間のボールタッチは一瞬リターンパスのように見えたものだ。しかし、体から離して止めたボールに思い切り足を伸ばしてゴールに押し入れている。普通の選手ならプレー範囲外のところにボールを置いてもシュートできる能力はクライファートらしく、18歳ですでにそれは武器になっていたわけだ。
DFラインの裏へ抜け出しながら浮き球を収めるのも格別で、これは98年フランスワールドカップのパートナーだったデニス・ベルカンプも素晴らしかったが、クライファートの場合はさらにリーチが加わる。とうてい届きそうにないボールでも、長い足と体の柔らかさでヒョイと届いてしまうのだ。
右後方に置いたボールを、反転しながら逆の隅まで持っていくシュートもできた。柔軟性と強靭さが同居していて、プレーに無理が利く。そして、それが無理に見えない。DFからすれば届かないところにボールがあるのに、クライファートには楽々と届いてしまうし、それでウェイトの乗ったシュートを打ててしまうのだから厄介である。
1998年ワールドカップ準決勝での同点ゴールもクライファートらしかった。ロナルド・デ・ブールが右サイドから入れたクロスボールに対して、DFの一歩前に踏み込んでジャンプして叩き込んだ。この時ブラジルのDFはすぐ近くでマークしていたにもかかわらず、まったく動けていない。クライファートはフリーでシュートを打っていた。
DFのマークミスのように見えるが、クライファートと最高到達点が違うのでそうなってしまうのだ。クロスボールのスピードがあったので、体をぶつける暇はなかった。DFは自分が触れる高さを目測し、そのタイミングで跳ぶつもりだったはずだ。ところが、クライファートに先に跳ばれてしまった。DFは、そのタイミングで跳んでも届かない。つまり、最高到達点に差があった。クライファートが踏み切った時、DFはまだこれから跳ぶつもりで体が沈んでいた。いってしまえば格の違いである。一瞬で勝負がついたのはモノが違うからだ。
岩のような破格のCB
岩のようなCBだった。どこに当たっても痛そう。スキンヘッドの見た目も恐い。1990年代末から2000年代初めにかけて、世界で最も恐れられたDFだろう。
ヤープ・スタムはいかにもCBらしい。パワフルでヘディングは強烈。しかも足下も巧い。そして何といっても、出力の大きさは驚異的だった。
相手にいったん抜かれていても、直後の2、3歩で後れを取り戻してボールを奪い取り、シュートやパスをブロックした。瞬発力のあるDFとしては、2006年のバロンドールを受賞したイタリアのファビオ・カンナバーロが印象的だが、スタムはカンナバーロよりずっと大きい。191cmの巨体であの瞬発力というところが破格だった。スピードがあるのでSBでもプレーしたこともあった。当時世界最速のロナウドやマイケル・オーウェンに追いつけたのだから、スタムの速さはトップクラスである。
1992-93シーズンにズヴォレでデビュー。カンブール、ウィレムⅡを経てPSVでエールディビジ優勝の原動力となった。1998年にマンチェスター・ユナイテッドに移籍すると、プレミアリーグ3回優勝、FAカップ、インターコンチネンタルカップ、CLとタイトルを獲りまくった。
自伝で監督やチームメイトを批判したことが物議を醸したこともあり、2001年にはセリエAのラツィオに移籍。後にアレックス・ファーガソン監督は「スタムの放出は間違っていた」と後悔している。ラツィオの提示額が高かったのと、負傷後のスタムがトップコンディションに戻っていないと判断したのだが、ラツィオとその後のミランでのプレーぶりを見て、まだ十分プレーできたと思ったそうだ。
大きくて強く、とてつもなく速く、そしてこれ以上ないぐらい恐い。スタムはオランダが生んだ最高クラスのCBである。
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しなやかな長躯を生かした懐の深さと高打点のヘディングで相手DFを制圧しスーパーなゴールを生み出したクライファートと、屈強な肉体に俊敏さを兼ね備え並み居るストライカーを完封したスタム。オランダ代表の歴史に名を刻む名手2人が、大人気スポーツ育成シミュレーションゲーム「プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド」(サカつくRTW)に登場!
クライファートとスタムをはじめ、現役スター選手らが新★5選手として登場する“LEGEND SCOUT”のほか、★4のクライファートとスタムが手に入るログインボーナスやレジェンドマッチも開催!
すでにプレー中の方はもちろん、「サカつく」未経験の方もこの機会にぜひ、ゲームにトライしてみてほしい。
<商品情報>
商品名 :プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド
ジャンル:スポーツ育成シミュレーションゲーム
配信機種:iOS / Android
価 格 :基本無料(一部アイテム課金あり)
メーカー:セガゲームス
さらに詳しい情報を知りたい方は公式HPへアクセス!
http://sakatsuku-rtw.sega.com/
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Profile
西部 謙司
1962年9月27日、東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、会社員を経て、学研『ストライカー』の編集部勤務。95~98年にフランスのパリに住み、欧州サッカーを取材。02年にフリーランスとなる。『戦術リストランテV サッカーの解釈を変える最先端の戦術用語』(小社刊)が発売中。