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柏レイソル史上最高の外国籍選手、レアンドロ・ドミンゲスの記憶。“ニーヤン”が私たちに遺してくれたもの

2025.04.10

太陽黄焔章 第23回

あまりにも早い別れだった。4月1日。レアンドロ・ドミンゲスは41歳の若さで帰らぬ人となった。2010年に柏レイソルへ加入してから4シーズン半の間に、J1優勝を筆頭にいくつものタイトルをクラブにもたらし、“ニーヤン”の愛称で親しまれた本物のクラックが、レイソルに、そしてJリーグに残した足跡は、これからも語り継いでいく必要がある。そのすべてを間近で見てきた鈴木潤が、改めてレアンドロの功績を振り返ってくれた。

 4月1日、レアンドロ・ドミンゲスが逝去されたという悲しいニュースが伝えられた。

 レアンドロは、柏レイソル、名古屋グランパス、横浜FCでプレーし、Jリーグに多大な功績を残した名手である。

 柏に在籍した4シーズン半、彼のプレーを間近で見てきた者として、私がレアンドロのためにできることは何か。そう自問自答したときに、彼の輝かしい功績を後世まで語り継いでいくことがメディアの一人としての役割だという結論に達した。

 私が持つ過去の取材記録と、栗澤僚一と大谷秀和、現在柏のトップチームでコーチを務め、レアンドロの盟友でもある二人の言葉を交えながら、柏時代のレアンドロの功績をまとめていきたい。

加入当初は疑問視されていた実力。だが、“王位継承”を機に……

 「ヴィトーリアのレアンドロ・ドミンゲスを獲得してほしい。彼が来れば、サッカーが変わる」

 2009年12月。そのシーズンのJ1で16位に沈み、J2へ降格した柏はチーム再建に向けて着々と準備を進めていた。上記のネルシーニョ監督(当時)の進言により、柏の強化部はリストアップしたレアンドロの獲得に動いた。その時の強化部の話では、コリンチャンスとの競合の末に、柏が獲得したと聞いている。

 強化本部を統括する小見幸隆ダイレクター(当時)の選手評によれば「典型的なブラジルの10番タイプの選手で、(アルビレックス新潟で活躍していた)マルシオ・リシャルデスをスケールアップさせた選手」という話である。

 だが、2010年の加入当初はコンディション調整が遅れ、さらにケガも重なって開幕から出遅れたこともあり、そこまでの強烈な印象はなかった。“マルシオ・リシャルデス以上”という前評判を受けて、選手たちの期待値も高くなっていたのだろう。1月のチーム始動時に、練習を終えて引き上げてきた選手たちにレアンドロの実力を訊ねると、多くの選手が首を傾げていた。

 大谷も当時の印象を語る。

 「ビッグクラブに行ってもあまり活躍できなかったという話は聞いていたし、来たときは練習自体もタッチ制限があった中で、そこまでインパクトがあったわけではなかった。タッチ制限がある練習ではあまり良さが見えなかったけど、試合が始まったらとんでもなかった」

 本領発揮とまでいかなかったもう一つの理由にフランサの存在がある。後に、竹本一彦強化本部シニアマネージャー(当時)が「レアンドロはフランサに気を遣っていたのかもしれない」と振り返ったように、ブラジル代表キャップを持ち、欧州でも活躍した経歴を持つフランサにはレアンドロも一目置き、リスペクトしている存在だったはず。

 しかし2010年シーズン中に大きく状況が変わる。フランサがケガで離脱し、シーズン半ばで柏を離れると、ネルシーニョ監督はレアンドロ中心のチーム作りを進めていった。大谷の「試合に出たらとんでもなかった」との言葉どおり、この王位継承を機にレアンドロは本来の力を発揮していく。

酒井宏樹の覚醒を促し、やがて無双の領域へ

……

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Profile

鈴木 潤

2002年のフリーライター転身後、03年から柏レイソルと国内育成年代の取材を開始。サッカー専門誌を中心に寄稿する傍ら、現在は柏レイソルのオフィシャル刊行物の執筆も手がける。14年には自身の責任編集によるウェブマガジン『柏フットボールジャーナル』を立ち上げ、日々の取材で得た情報を発信中。酒井宏樹選手の著書『リセットする力』(KADOKAWA)編集協力。

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