民族紛争、八百長事件、古巣破産、がん闘病を乗り越えてスラベンと快進撃!マリオ・コバチェビッチ監督の「愛すべきキャリア」

炎ゆるノゴメット#15
ディナモ・ザグレブが燃やす情熱の炎に火をつけられ、銀行を退職して2001年からクロアチアに移住。10年間のザグレブ生活で追った“ノゴメット”(クロアチア語で「サッカー」)の今に長束恭行氏が迫る。
第15回は、クラブ予算がディナモの17分の1程度に限られているスラベン・ベルーポをクロアチアリーグ5位(第25節時点)、クロアチアカップ準決勝進出の快進撃に導くマリオ・コバチェビッチ監督について。民族紛争、八百長事件、古巣破産、がん罹患を乗り越えた「愛すべきキャリア」を教えてもらおう。
3月2日、初のイタリア人監督同士の対戦となったクロアチアダービーを2-2で終えると、試合中継のカメラはピッチ際の仮設スタジオに切り替わった。ハイデュク・スプリトのジェンナーロ・ガットゥーゾ監督、続いてディナモ・ザグレブのファビオ・カンナバーロ監督を迎えた解説者のヨシュコ・イェリチッチは、それぞれを見送った後、容赦ない本音をマイクに吐き出した。
「カンナバーロは次節にスラベン・ベルーポ戦を迎える。つまり、彼(カンナバーロ)や少し前にここにいた紳士(ガットゥーゾ)よりも優れた監督を迎えるわけだ」
人口約3万人の小都市、コプリブニツァを本拠地とするスラベン・ベルーポ(以下、スラベン)は、今季のクロアチアリーグで最も魅力的なサッカーをプレーしている。指揮官はマリオ・コバチェビッチ(49歳)。年齢的にはカンナバーロ(51歳)やガットゥーゾ(47歳)と同世代だが、彼らのような華やかな選手キャリアを過ごしたわけでなく、監督としても薄給で新興クラブや弱小クラブを転々としてきた。エネルギーに満ちたサッカーで相手を打ち負かすことを信条とし、ボールを奪った瞬間から急流がゴールに注ぎ込むような美しいアタックは、一部の好事家から「コバボール」と呼ばれている。
コバチェビッチが「キャリア最大の勝利」に挙げるゲームが、昨年9月21日に行われた第7節「スラベン対ディナモ」だ。スラベンは開幕5試合で勝ち点1しか稼げなかったイバン・ラデリッチ監督を解任。チームの再生を託されたコバチェビッチは、CLのバイエルン戦(2-9)で手負いのディナモを4-1のスコアで完膚なきまでに叩きのめした。
スラベンは大手製薬会社「ベルーポ」をメインスポンサーとし、1997-98シーズンの昇格後は常に1部にとどまっている中堅クラブだ。だが、クラブ予算はディナモの17分の1、ハイデュクの9分の1の400万ユーロほどに過ぎない。手駒のほとんどがフリー移籍、あるいは無償ローンで獲得した選手たち。そんな彼らを前向きにさせるのが、コバチェビッチの誠実な人柄だ。かつてセリエでも活躍した34歳の元・北マケドニア代表CFイリヤ・ネストロフスキは、ポッドキャスト番組でこのように指揮官への思いを語る。
「コバチェビッチはとても素晴らしい人物だ。その善良さは内面から滲み出ており、彼のためなら200%の力を発揮できる。つまり、戦いに没頭できるわけさ。さらにポジティブな性格だし、サッカーをよく知っている。それらすべてが組み合わさり、スラベンの美しいストーリーが生まれたんだ」
本連載のWEB版初回で紹介したペタール・シェグルト(元タジキスタン代表監督)と同じく、コバチェビッチも数奇な人生を送り、それが自身の哲学につながっている。まだ国際的には無名な「善良すぎる監督」のストーリーを紐解いてみよう。
「人格を形成した」ボスニア紛争から亡命。クロアチアでプロ選手に
コバチェビッチの出身地はボスニア・ヘルツェゴビナ南部のヤブラニツァ。前日本代表監督のヴァイッド・ハリルホジッチも生まれた、川べりの風光明媚な町だ。ハサン・サリハミジッチ(前バイエルンSD)と一緒に地元のサッカースクールに入団し、サリハミジッチの父親から最初の指導を受けたという。10歳の頃に父親の転職で首都サラエボに移住。憧れていたFKサラエボのユースチームに合格し、より高いレベルでトレーニングに励んだ。
クロアチア人としては175cmと小柄なコバチェビッチは、サイドハーフとして技術を磨いていたが、プロ契約を結んだ1992年にボスニアで民族紛争が勃発。セルビア人勢力に包囲されたサラエボは度重なる砲撃にさらされ、街を歩く者はスナイパーから命を狙われる。そんな環境下で屋外のサッカーは許されず、体育館でフットサルに励むしかなかったものの、1日たりとも練習は休まなかった。それも自宅から体育館まで往復11kmの道のりを徒歩や自転車で行き来し、真後ろの人が狙撃された経験もあったという。体育館も砲撃を受け、練習中に避難することも日常的だった。
1994年3月20日、国連平和保護軍(UNPROFOR)との親善試合がFKサラエボの本拠地スタディオン・コシェボで執り行われた。この試合に出場してからまもなく、コバチェビッチは戦火の街をカバン1つで脱出。叔母の住むクロアチアの首都ザグレブに渡った。多くの友人を戦争で失ったコバチェビッチは、その影響をこのように振り返る。
「若い世代はあの戦争について知らないし、私もあまり話したくないテーマだ。しかし、あの戦争が私の人格を形成したのは事実。あの頃は自分はサッカー選手になれないという事実を受け入れたわけでなく、生き残れないかもしれないという事実を受け入れた。そして、生き残った。だからこそ今日の私はすべての物事をポジティブに捉えているんだ」
19歳のコバチェビッチが最初に入団テストを打診したのは、シュトゥルム・グラーツを率いるイビチャ・オシムだった。名将の下で強豪と化していくシュトゥルムはハードルが高く、その代わりにオシムは「オーストリア下部で君のクラブを見つけておく」と約束してくれた。グラーツからザグレブに戻ってきたコバチェビッチは、父親の知人を介してクロアチア北部のバラジディンに本拠地を置くバルテクス(クロアチア1部)にも打診。会長に受け入れられ、近隣の2部クラブで預かることになった。のちにオシムからクラブ紹介の連絡が届いたものの、より適応しやすいクロアチアでキャリアを続けることを決意する。以降は選手としても監督としてもクロアチア北部が拠点となり、追ってバラジディン出身の女性と結婚したこともあって当地に根を下ろしていった。……



Profile
長束 恭行
1973年生まれ。1997年、現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて銀行を退職。2001年からは10年間のザグレブ生活を通して旧ユーゴ諸国のサッカーを追った。2011年から4年間はリトアニアを拠点に東欧諸国を取材。取材レポートを一冊にまとめた『東欧サッカークロニクル』(カンゼン)では2018年度ミズノスポーツライター優秀賞を受賞した。近著に『もえるバトレニ モドリッチと仲間たちの夢のカタール大冒険譚』(小社刊)。