セリエA首位を飛ぶアタランタの「元・渡り鳥」。マリオ・パシャリッチが募らせる古巣ハイデュクへの愛をたどる
炎ゆるノゴメット#12
ディナモ・ザグレブが燃やす情熱の炎に火をつけられ、銀行を退職して2001年からクロアチアに移住。10年間のザグレブ生活で追った“ノゴメット”(クロアチア語で「サッカー」)の今に長束恭行氏が迫る。
第12回では、セリエAで首位を飛ぶアタランタの「元・渡り鳥」マリオ・パシャリッチに注目。古巣ハイデュクへの愛をたどりながら、その流転のフライトを振り返る。
「クロアチアのためにプレーすることはいつだって名誉だ。1試合でも出場することが夢だったのが、70キャップまで届いた。でも僕の前にはまだまだ多くのサッカー(の試合)が待っている。どんな起用であっても喜ばしいよ。もしゴールを挙げられれば、なおさら良いだろうね」
11月のネーションズリーグのスコットランド戦を控えた記者会見で、マリオ・パシャリッチは代表キャリアの10年間、そして今後の抱負を端的に語った。縦へのダイナミズムとゴールへの嗅覚が持ち味のセントラルMFだが、ルカ・モドリッチ、イバン・ラキティッチ、ミラン・バデリ、マルセロ・ブロゾビッチ、マテオ・コバチッチといった先輩たちの壁は厚く、起用はもっぱら穴埋めか途中出場、あるいは左右ウイングやCFをこなす「便利屋」として扱われてきた。ズラトコ・ダリッチ監督は今秋からアタランタと同じ[3-4-2-1]を導入したのにもかかわらず、パシャリッチを差し置いてルカ・スチッチやマルティン・バトゥリナ、ペタール・スチッチといった若手にレギュラーポジションを与えている。現存メンバーでは5番目の72キャップを重ねながら、平均出場時間(44.79分)がハーフタイムにも満たないのは実に気の毒だ。
CF不足に陥ったスコットランド戦を前に「CF起用の準備ができているか?」と質問され、「問題ない。これまであらゆるポジションをこなしてきたからね。どんな要望でも受け入れるつもりだ」とあくまで謙虚なパシャリッチ。しかし、ダリッチ監督は彼をベンチに据え置き、出場時間は途中交代の24分間にとどまった。3日後のポルトガル戦でもベンチスタート(コバチッチの負傷により後半頭からボランチで出場)。キャリアの円熟期に入った29歳の彼を最適な形で使いこなせない指揮官の下では、これからも実績に見合わない起用が続くだろう。同じイニシャルと苗字を持つマルコ・パシャリッチが代表メンバーになったことも(右ウイングではライバル関係だ)、存在感の希薄さにつながっているかもしれない。
その一方でクラブシーンのパシャリッチに目をやれば、セリエAで首位に立つアタランタで欠かせないピースになっている。ジャン・ピエロ・ガスペリーニ監督との蜜月もすでに7年目。現在は[3-4-2-1]のボランチ、もしくは[3-4-1-2]のトップ下で起用されており、昨季はクラブ初の国際タイトルとなるEL優勝にも貢献した。10月20日のベネツィア戦ではセリエAでの通算50得点を記録し、同リーグにおけるクロアチア人の最多ゴールの数字を更新(それまでの最多記録はイバン・ペリシッチの49得点)。ボックス・トゥ・ボックスのプレーヤーでありながら、ここぞの一発があるのがパシャリッチの魅力だ。
パシャリッチの代表チームにおけるイメージが「便利屋」ならば、クラブシーンにおけるイメージは「渡り鳥」だ。それも最愛の親から巣立ちを強要され、あらゆる土地を飛び続け、安住の地にたどり着くまでに滑落しかねなかった。ビッグクラブの青田買いで潰されたクロアチアのタレントは枚挙に暇がない中、どうやってパシャリッチは成功を収められたのか。そんな彼の流転のキャリアを追ってみよう。
「忘れられない夜」から一転…ハイデュクを救ったチェルシー移籍劇
1995年2月9日、マリオ・パシャリッチは両親の出稼ぎ先であるドイツのマインツで生まれた。産後から間もなくして、パシャリッチ家はクロアチアのスプリト郊外に帰還。ハイデュク・スプリトが熱狂的に支持される土地柄だけにマリオ少年もハイデュクを熱愛し、幼稚園生だった5歳で地元クラブのゴシュク・カシュテラに入団する。代表でチームメイトになる2歳年上のFWマルコ・リバヤも加入し、入団時点では10歳のチームで一緒にプレーしていたそうだ。
11歳で憧れのハイデュクアカデミーにステップアップし、U-14から世代別代表に選出されたように早くから才能が買われていた。17歳の頃に黄色ブドウ球菌感染症に冒されて半年間プレーできず、キャリア存続が危ぶまれたものの、18歳2カ月でトップチームデビューを果たしてプロ契約を結ぶ。そして、イゴール・トゥドールが指揮する翌2013-14シーズンでは開幕からレギュラーポジションを与えられた。彼の名前を一躍高めたのは、2013年9月14日に行われたディナモ・ザグレブとのダービーマッチ。49分に左コーナーキックから流れてきたボールに対し、海老反りになりながら本能的にかかとで捕らえて先制ゴールにつなげると、69分にも左コーナーキックからのボールをヘディングで叩き込んだ。
「ボールがネットを揺らした瞬間、全世界を制覇したような気分になれた。3万人の観客で埋め尽くされたポリュウド(ハイデュクの本拠地)で、18歳の僕がダービーでゴールを決めたんだから。試合後には実家の前に300人ほどが集まり、夜明けまで祝ってくれた。朝にはトレーニングに行かなくてはならなかったんだけどね(笑)。あれは忘れられない夜だった」
10代でレギュラーとして華々しく活躍する逸材を国外の名門は放っておかなかった。同シーズンの冬にラツィオへの移籍が秒読み段階になる中、移籍期限の終了間際に250万ユーロを提示したチェルシーに売却することをハイデュクのフロントが決断。当時の出来事をパシャリッチはこのように振り返る。……
Profile
長束 恭行
1973年生まれ。1997年、現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて銀行を退職。2001年からは10年間のザグレブ生活を通して旧ユーゴ諸国のサッカーを追った。2011年から4年間はリトアニアを拠点に東欧諸国を取材。取材レポートを一冊にまとめた『東欧サッカークロニクル』(カンゼン)では2018年度ミズノスポーツライター優秀賞を受賞した。近著に『もえるバトレニ モドリッチと仲間たちの夢のカタール大冒険譚』(小社刊)。