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サンフレッチェの未来を創る強化責任者、雨野裕介の原点。「全くのゼロから5カ月でやる。しかも1人で」レジーナ立ち上げの物語

2024.11.27

GMが描くJクラブ未来地図#1
雨野裕介(サンフレッチェ広島強化本部長)前編

若手を中心に多くの日本人選手の目が「外」に向き、世界的な移籍金のインフレ傾向に円安も重なり外国籍選手獲得のハードルも上がる――今のJクラブの戦力編成の難易度はかつてないほど高まっており、中長期の明確なクラブ戦略なしでチーム力を維持・向上させていくのは不可能だ。今連載では、そのカギを握る各クラブのGM/強化部長のビジョンに迫りたい。

第1&2回は、前任者の足立修からバトンを受けて強化本部長に就任したサンフレッチェ広島の雨野裕介。シーズン途中にトルガイ・アルスランやゴンサロ・パシエンシア、川辺駿を獲得するなど、1年目からさっそく手腕を発揮している。前編では彼の原点とも言えるサンフレッチェ広島レジーナの立ち上げの物語を振り返ることで、強化本部長としてのバックボーンを伝えたい。

ベースはゼロ。監督も選手もスタッフも未定。期限は5カ月

――今回は雨野本部長の強化部でのお仕事について伺いたいのですが、今の職に就くきっかけにもなったサンフレッチェ広島レジーナの立ち上げについて聞かせてください。2019年にガイナーレ鳥取から広島に戻ってこられて、強化部での仕事をスタートすることになりましたよね。

 「2017年、鳥取の監督に森岡隆三さんが就任されたんですが、その時に僕も関わっているんですよね。でもなかなか結果が出なくて、呼んだのは当時の強化部長だった吉野智行(現湘南スポーツダイレクター)と僕なんですよね。翌年、開幕から調子が良くて首位に立ったこともあったんですが、成績は徐々に下降。第12節の秋田戦で勝ったんですが、その直後にリュウさんは解任されてしまったんです。その後を須藤大輔監督が引き継いで、3位まで浮上。僕も須藤さんの下でヘッドコーチをやったりしていたんですけど、ずっとモヤモヤしながら仕事をしていた。リュウさんに対する罪悪感というか、責任というか。なので、シーズン終了後に僕も辞めようと思っていたんです。そのタイミングで、足立修(広島前強化部長)さんから連絡が来て『戻ってこい』と。シーズン終了後、正式なオファーをいただいて、広島に戻ることになりました」

今季から22年間にわたって尽力してきた広島を離れ、Jリーグでフットボールダイレクターを務めている足立氏。スカウト、強化部長代理兼スカウト、強化部長を歴任した

――戻ってきた当初は、どういう仕事が多かったですか?

 「J2やJ3を見たり、梅田直哉スカウトと手分けして高校生・大学生を見に行ったり。ただ基本は、チームについて強化の勉強をしていましたね」

――そして2020年、レジーナの立ち上げ。

 「7月に準備室ができて、そこに配属されました」

――寝耳に水でしたか。

 「サンフレッチェ広島がWEリーグに参入するのではという噂は出ていたんだけど、やらないだろうなって思っていたんです(笑)。そしたら練習場で足立さんに呼ばれて『今度、女子チームを立ち上げるから、女子の強化部長やらんか』と。まだ参入が決まっているわけではないし、なにせ女子チームのベースが何もない。監督も選手もスタッフも、決まっていない。何を、どうしろと(笑)。しかも、WEリーグ開幕は翌年の9月。逆算すると、年末までにチームを形づくらないといけない。練習場すら決まっていないし、スタッフは僕だけ。全くのゼロから5カ月でやらないといけない。しかも、たった1人で。

 ずっと男子サッカーの世界にいて、女子サッカーのことは全くわからない。監督は誰にするか、選手は来てくれるのか。しかもその時のルールで、なでしこリーグが終わってからじゃないと、選手にアプローチできなかった。厳しかったですね。

 とにかく、まずは女子サッカーの情報を得ないと、話にならない。手当たり次第に映像を見て、女子サッカーの関係者に連絡して。幸い、INAC神戸さんが快く協力していただいて、様々な情報をいただいたり、練習も見せてもらったり。C大阪レディースさんや愛媛FCレディースさんにも、環境を見せていただいたり、運営のノウハウ、女子サッカークラブが抱える課題も、教えていただきました。本当にありがたかったですね」

雨野強化本部長(Photo: Kayo Nakano)

――全くのゼロからのスタート。監督選びや選手のスカウティングはどんなことから始めたんですか?

 「リストアップした選手は60〜70名くらい。他にも海外でプレーしている日本人選手の情報も集めました。トータルで100人くらいの情報を集めましたね。そして10月15日、 WEリーグの参入が決定。2日後に中村伸さんに電話して、『ちょっと話がある。会社に来てくれないか』って言ったんです。すると、何かを予感したんでしょうね。『嫌だ』って言っていました(笑)。とにかく来てもらって、仙田信吾社長と僕とで会って『監督をやってくれないか』ってオファーしました。

 広島の哲学があって、アカデミーからトップチームの経験が豊富で、個別に細かいところまで指導ができる、チームを強くすることと育成が両立できる指導者は誰なのかとなった時に、初代監督はシンさんしかいないと考えるようになったんです。シンさんは『クラブのために自分の力が必要としてもらえるならば』っていう人。最終的には、悩まれたとは思いますが、引き受けていただけました」

――雨野本部長と中村監督がファミレスでメシを食いながら「あの選手はどうだ」「この選手はどうだ」って編成会議をやったそうですね。

 「近くのファミレスでずっと話をしていましたね(笑)。それで、編成できた。このクラブのポテンシャルはやばいですよ(笑)」

中村伸監督と鈴木俊ヘッドコーチに頼んだ理由

――監督が決まった時も、まだ選手が決まっていなかった。……

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Profile

中野 和也

1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。

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