責任企業が外れた東京Vのその後。2010年、トップとユースが苦境で示した意地
泥まみれの栄光~東京ヴェルディ、絶望の淵からJ1に返り咲いた16年の軌跡~#5
2023年、東京ヴェルディが16年ぶりにJ1に返り咲いた。かつて栄華を誇った東京ヴェルディは、2000年代に入ると低迷。J2降格後の2009年に親会社の日本テレビが撤退すると経営危機に陥った。その後、クラブが右往左往する歴史は、地域密着を理念に掲げるJリーグの裏面史とも言える。東京ヴェルディはなぜこれほどまでに低迷したのか。そして、いかに復活を遂げたのか。その歴史を見つめてきたライター海江田哲朗が現場の内実を書き綴る。
第5回は、2010年、Jリーグが直接介入することになったクラブ経営下において、トップチームおよびユースが苦境に立ち向かった過程を描く。
見渡せば経費節減の嵐
とにかく、カネがなかった。
責任企業を担った日本テレビから離れ、東京ヴェルディが独立採算のクラブとして歩み始めた2010シーズン。物品の支給が限られるため、誰もが穴の空いたソックスでも大事に履いていた。ミネラルウォーターやスポーツドリンク、果汁100%ジュースがぎっしり詰まっていた冷蔵庫は、数本のペットボトルが横たわるのみ。遠征先のホテルはランクが下がり、食事はおかずが一品減った。選手のサラリーは言わずもがなだ。年俸1000万を超える者は数えるほどで、若手は生活が可能な限界ギリギリまで低く抑えられていた。
テレビのニュースは戦後最も暑い夏だと伝えていた。最寄りのバス停から坂道を歩くだけで汗が吹き出してくる。クラブハウスの玄関をくぐると、むわっとした空気に包まれた。館内の余分なスペースはクーラーが効いていない。節電のためだ。薄暗く感じるのは、蛍光灯の数を3本から2本に減らしたせい。細かい部分を見直し、電気代は3割程度カットできたという。
東京Vに軸足を置いて活動する私もまた、カネがなかった。J2の露出媒体、及び執筆のオファーは限られる。もとより豊かな生活を送っていたわけではないが、そのうち取材費の捻出にも窮するようになった。東京V以外、サッカー全般の仕事や他ジャンルの単発の仕事があったのがせめてもの救いだ。
10年前、軽はずみに所帯を構え、40歳の大台が数年後に迫っていた。ライター業を続けていくか、否かのポイント・オブ・ノー・リターン(帰還不能点)はこのあたりか。あるいはもう過ぎてしまったか。
結局ランドに通い続けた私は、人に言わせれば、東京Vを見捨てられなかったんだね、ということになるらしい。そのつもりはなく、どうにも引っ込みがつかない。納得がいかない。ただ、それだけだった。
一介の生活者の場合は暮らしをミニマムにすれば済む話である。ライターとして、ここをケチったらおしまいだという本を買うカネ、スポーツや映画を観るカネを確保し、余分なものをオミットする。だが、サッカークラブの運営はそうはいかない。男女のトップからアカデミーまでを回していくには相応の費用が必要になる。
経営難とは裏腹にチームはJ1昇格戦線へ
が、苦境には苦境なりの愉悦あり。
そのシーズン、東京Vは想像をはるかに超えるしぶとさを見せる。5月に入ってから経営危機が表面化し、6月29日からJリーグが直接的に運営するという前代未聞の事態となった。ここでガクッと調子を落としてもおかしくないのだが、7月18日のJ2第18節、横浜FC戦から8試合負けなしの5勝3分け。経営面の不調とは裏腹に、川勝良一監督の標榜するパスサッカーは輝きを増していった。
10月16日の第30節終了時点で、3位の福岡と勝点6差の5位。崩れそうで崩れず、上位に食らいついて離れない。当時、J2のレギュレーションは3位までが自動昇格、プレーオフや入れ替え戦は設けられていなかった。
キャプテンを務める富澤清太郎は言った。
「昨年は夏頃に身売り話が報じられ、そのあとチームの成績が下降していきました。もちろん、僕らは目の前の試合に全力を傾けようとしていたし、そんな影響を認めたくはないけれど、結果的にそうなってしまった。いま思えば、選手全員がサッカーに集中し、ひとつの方向を向くのはやはり難しい状況だった。高木(琢也)監督からも気持ちの揺れを感じました。唐突に足もとがグラつき始めたのだから、それが普通かもしれない。ただ、同じことを繰り返していたら意味がない。今度こそは持ち堪え、逆にバネにするくらいの気持ちでやっています」
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Profile
海江田 哲朗
1972年、福岡県生まれ。大学卒業後、フリーライターとして活動し、東京ヴェルディを中心に日本サッカーを追っている。著書に、東京Vの育成組織を描いたノンフィクション『異端者たちのセンターサークル』(白夜書房)。2016年初春、東京V周辺のウェブマガジン『スタンド・バイ・グリーン』を開設した。