クロアチア代表を「家族」たらしめた熱血漢。ドマゴイ・ビダが紡ぐ親子の物語
炎ゆるノゴメット#9
ディナモ・ザグレブが燃やす情熱の炎に火をつけられ、銀行を退職して2001年からクロアチアに移住。10年間のザグレブ生活で追った“ノゴメット”(クロアチア語で「サッカー」)の今に長束恭行氏が迫る。
第9回ではドマゴイ・ビダのクロアチア代表引退に寄せて、“バトレニ”をピッチ内外で支え続けたファイター兼ムードメイカーの知られざる貢献と、その原点にある親子の物語を紹介する。
「涙が目からあふれてきて、悲しみに耐えられなかった。同伴の息子が感極まって泣いているのを目にしたのならばなおさらだ。代表チームで過ごした14年間は長い年月だけに、それが僕に失われてしまうことが本当につらい」
9月9日のネーションズリーグ第2節「クロアチア対ポーランド」は、東部に位置するスラボニア地方のオシエクで開催。試合前には同地方出身のドマゴイ・ビダの代表引退セレモニーが執り行われた。クロアチア代表105キャップは歴代7位。クラブキャリアは他の選手より劣るかもしれないが、みなぎる闘志と対人の強さ、そして周囲に笑いをもたらす陽気なムードメイカーとして「バトレニ」(“炎の男たち”を意味するクロアチア代表の愛称)には欠かせない顔だった。
ビダは同い年のデヤン・ロブレンとピッチ内外で鉄壁コンビを結成し、2018年のロシアW杯では銀メダル(準優勝)をもたらしたCB。準々決勝・ロシア戦の延長戦でヘディングシュートをねじ込み、ユニフォームを脱いで喜ぶ姿は国民の記憶に残る場面だ。同大会でチームマスコットのようにかわいがられた長男ダビドは今年で9歳になり、父親と同じポニーテールを結うようになった。ポーランド戦ではルカ・モドリッチのエスコートキッズとして入場し、父親の横で「105」の背番号のユニフォームを手にしたダビドは、あふれる涙を手で拭った。そして、スタジアムにはローカルヒーローの名前が幾度となく響いた(※ロシアW杯メンバーでスラボニア地方の出身はビダとマリオ・マンジュキッチのみ)。
「代表戦でスタンドからの咆哮がはじまると(良い意味で)全身の毛が逆立ち、鳥肌が立ったものだ。それはこれからの私にとって最も恋しくなるものだろう」
元・伝説的ストライカーの父と技を磨いたイタズラっ子時代
オシエクから50km離れた人口5000人ほどの小さな町、ドーニ・ミホリャツに住み続けるルディカ・ビダは、クロアチアリーグ創成期に活躍した、国内でも知る人ぞ知るストライカーだ。滞空時間の長いジャンプからのヘディングシュートを武器とし、強豪オシエクではダボル・シュケル(のちのフランスW杯得点王)とポジション争いをした過去もある。1993-94シーズンには地元の弱小クラブ、ベリシュチェで得点ランク3位の26ゴールを記録。当時30歳のルディカは地元の石油会社に籍を置く「兼業フットボーラー」であり、トップリーグ挑戦の1年間だけ休暇をもらってプレーしていた。再びオシエクに短期加入を果たすも、家族を養うために石油会社の技術職を軸に戻し、37歳まで下部リーグで細々とサッカーを続けていたという。
実直で勤勉なフットボーラーの次男として、1989年4月29日に生まれたのがドマゴイだ。4歳年上の兄フルボイエと同じく、父親の影響を受けてサッカーに興味を持つ。ストライカーだった兄の方が有望だったが、ルディカが二足のわらじで現役を続けていたこともあって面倒を見られなかったそうだ。逆にドマゴイの成長期にルディカは現役生活を終えていた。遠方のオシエクユースに入団し、DFとして頭角を現せたのは父親相手に技を磨き続けていたのが大きかった。
「小さい頃はオヤジとよく1対1をやっていた。ストッパーはストライカーに負けちゃいけない。それに僕は『ルディカの息子』といつも言われていたからね。どうしてもオヤジを止めたかったんだ」
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Profile
長束 恭行
1973年生まれ。1997年、現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて銀行を退職。2001年からは10年間のザグレブ生活を通して旧ユーゴ諸国のサッカーを追った。2011年から4年間はリトアニアを拠点に東欧諸国を取材。取材レポートを一冊にまとめた『東欧サッカークロニクル』(カンゼン)では2018年度ミズノスポーツライター優秀賞を受賞した。近著に『もえるバトレニ モドリッチと仲間たちの夢のカタール大冒険譚』(小社刊)。