サンフレッチェ「驚きの夏」の舞台裏。川村+野津田+大橋移籍の危機から川辺復帰と秘密兵器アルスラン加入で6連勝
サンフレッチェ情熱記 第15回
1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始し、以来欠かさず練習場とスタジアムに足を運び、クラブへ愛と情熱を注ぎ続けた中野和也が、チームと監督、選手、フロントの知られざる物語を解き明かす。第15回は、川村拓夢、野津田岳人のボランチ2人とエースの大橋祐紀が移籍する危機を乗り越え、川辺駿とトルガイ・アルスランの加入でリーグ6連勝と急上昇した「驚きの夏」の舞台裏に迫る。
驚きの大橋祐紀ブラックバーン移籍
2024年7月20日、鳥栖戦の前日。少し大袈裟に言えば、広島の歴史が大きく変わる出来事があった。イングランド2部のブラックバーンから、大橋祐紀に対して移籍の正式オファーが届いたのだ。
強化部にとっては寝耳に水。ただ、大橋の代理人は、ずっと欧州への移籍先を探していた。それは大橋自身の目標でもあった。
大橋は昨年のシーズンオフ、欧州移籍を最優先としてチームを探していた。湘南加入後、右足前十字靱帯断裂などの大ケガを繰り返していたが、プロ6年目の2023年に22試合13得点という成果を残して大ブレイク。ただ、年齢は今年で28歳。欧州チャレンジに向けて時間がないのも現実だった。
それでも、大橋は自身の夢、人生の目標にこだわった。
「彼の中には、湘南との契約終了後にどこにも所属せず、登録期間ギリギリの3月まで結論を引っ張ろうという意思もあった。それも全て、欧州移籍のためだったなんです」
そう語ったのは、雨野裕介強化本部長。2015年から9年間にわたって広島の強化部長を務めた足立修氏(現Jリーグフットボールダイレクター)の後を引き継ぎ、今季から広島の強化責任者を任されている人材である。
新強化責任者・雨野裕介が歩んできた道
少しだけ、彼が歩いてきた人生をご紹介しよう。
松山市出身の彼は1994年、創設間もない広島ユースに加入した。左サイドを主戦場とした攻撃的なタレントで、1年の頃から2種登録されてサテライトの試合に出場するなど、将来を嘱望されていた選手だった。だが高校2年の4月、試合中に彼を悲劇が襲う。足の三角靱帯を完全に断裂してしまい、7時間もの大手術を受けることになってしまった。
歩くこともできない日々が続き、ドクターからは「サッカーはもうできない」と通告された。それでも、雨野少年はピッチに立てると信じ込んでいた。北海道にこういう症例に強いドクターがいると聞いた彼は、クラブのサポートのもとでそのドクターのもとに通い続ける日々を過ごす。2週間を北海道で、次の1週間を広島で。そんな生活が1年半、続いた。先の見えない状況の中、それでもたくさんの人々の励ましを受け、「絶対に治る」と信じて闘った。
ケガを負ってから1年後、当時のユースチームが練習していた吉田運動公園で、彼はついに、走ることもボールを蹴ることもできるようになった。だからといって、すぐにサッカーができるようになったわけではなく、試合に出るまでに時間も必要だった。
そこで彼は三矢寮(サンフレッチェ広島ユースの学生寮)で当時、寮長を務めていた稲田稔氏の勧めもあり、高校を休学して1年留年することを決意。空前絶後といっていい「広島ユース4年生」として1997年シーズンをプレーする。この年、駒野友一や森﨑和幸、森﨑浩司といった後の広島を支える人材が加入し、雨野は彼らとともにJユースカップ決勝に出場しているのも、感慨深い。
その後、桐蔭横浜大や鳥取でのプレーを経て2005年、広島ユースのコーチとして彼はサンフレッチェ広島に戻ってきた。前田俊介や髙柳一誠、森脇良太、槙野智章や柏木陽介ら錚々たる面々がいた広島ユースを率いた森山佳郎監督をサポートし、多くの才能をトップチームに送り出した。
2011年から鳥取で指導者として仕事を行い、2019年に広島復帰。2020年には翌年のサンフレッチェ広島レジーナの発足に伴ってレジーナの強化責任者となった。女子チームの指導や運営の経験は全くなかったが、初代監督である中村伸(現トップチームコーチ)と二人三脚で一からチームを作り上げる仕事にチャレンジする。
彼がレジーナの強化担当になった時はチームの実態はほとんどなく、WEリーグ加入決定とサンフレッチェ広島というクラブの歴史、そして新しいチームをつくるという情熱だけを頼りに、雨野と中村はチームづくりをスタート。ファミリーレストランなどで打ち合わせを重ねながら構想を練り、選手たちをイチから調査、獲得リストをつくりあげた。
結果として、近賀ゆかりと福元美穂という女子W杯の世界一メンバー獲得だけでなく、中嶋淑乃や柳瀬楓菜、小川愛らダイヤの原石をチームに招き入れて育成し、2023年にはチーム創設3年目でのタイトル(WEリーグカップ)獲得を成し遂げた。選手としては不運。しかし指導者や強化責任者としての実績は豊富な彼は、広島が34年の歴史の中で育ててきた人材だと言っていい。
スカウトとして青山敏弘という宝石を獲得し、強化部長としてチームの指針を明確にしつつ、ミヒャエル・スキッベという超大物監督の招聘に成功した足立前強化部長の後を引き継ぐことに雨野強化本部長は当然、大きなプレッシャーを感じていた。
それを跳ね返すには、実績で見せるしかない。強い想いをもって仕事を受け継いだ彼と強化部は、春先から大きな仕事を次々と成し遂げた。
3月、スキッベ監督が大きな期待を寄せていたCB山﨑大地が右膝前十字靱帯断裂の大ケガを負い、全治10カ月の診断を受けた。CBだけでなくボランチもこなせる若者の負傷を受けて雨野本部長はすぐに動き、春の登録期限ギリギリで新潟から新井直人の獲得に成功する。
彼はサイドだけでなく中盤も最終ラインもできる逸材であり、加入直後は幅広いポジションでの活躍に期待されていた。そして5月19日の京都戦、DFとしてはクラブ史上初となるハットトリックを決め、6試合勝利なしだったチームを救った。ここまで広島では24試合出場5得点3アシスト。右ワイドのポジションを完全に獲得し、チームの躍進に大きく貢献している。
また来季の新卒選手として、明治大のFW中村草太と早稲田大のGKヒル袈依廉の獲得が内定。どちらも即戦力として多くのJクラブが注目している逸材で、特に中村は、昨年度の関東大学サッカーリーグ1部で史上初となる得点王とアシスト王のダブル受賞を果たしたストライカー。年末の大学選手権(インカレ)でも準決勝・決勝と連続ゴールを記録してMVPを獲得するなど、来季新卒の目玉としてJ1のビッグクラブが積極的に勧誘を図ったタレントである。そういう選手を広島が獲得に成功したことは、全国のサッカーファンを驚かせた。
スキッベ監督も危機感。ボランチ2人とエースが去る
順調に見えた2024年シーズンだったが6月、大きな試練が広島を襲う。
昨年から日本代表に選出され始めた川村拓夢がスイスの名門・ザルツブルクに移籍。また、川村同様にアカデミーから大事に育ててきた野津田岳人がタイの強豪チームであるBGパトゥム・ユナイテッドに活躍の場を求めて広島を去ってしまったのだ。……
Profile
中野 和也
1962年生まれ。長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリー、1995年からサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するレポート・コラムなどを執筆した。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。以来10余年にわたって同誌の編集長を務め続けている。著書に『サンフレッチェ情熱史』、『戦う、勝つ、生きる』(小社刊)。