REGULAR

テルジッチ監督はクロアチア人?ドイツ人?いや…CL決勝で示す「黒と黄色」の血

2024.05.24

炎ゆるノゴメット#5

ディナモ・ザグレブが燃やす情熱の炎に火をつけられ、銀行を退職して2001年からクロアチアに移住。10年間のザグレブ生活で追った“ノゴメット”(クロアチア語で「サッカー」)の今に長束恭行氏が迫る。

第5回はクロアチア国籍を保有する監督として初めてCL決勝に臨む、エディン・テルジッチについて。9歳で虜になったドルトムントへの愛、指導者キャリアを変えた祖国訪問、そしてその複雑なナショナリティをめぐる論争に迫る。

 「(マンチェスター・)シティはクロアチア人選手を誰か買わなくてはならない」

 デヤン・ロブレンがそんな皮肉をSNSに投稿したのは、マテオ・コバチッチを擁するチェルシーが2020-21シーズンのCLを制覇した直後だった。この時点でクロアチアは9季連続でCLの優勝者を輩出中。2021-22シーズンのレアル・マドリー(ルカ・モドリッチ)の優勝により10季連続に伸び、翌2022-23シーズンに「クロアチア人選手ゼロ」のシティがインテル(マルセロ・ブロゾビッチ)をファイナルで下して記録はようやく途絶えた。だが、初戴冠のシティが今季からコバチッチとヨシュコ・グバルディオルを迎え入れたことを考慮すれば、クロアチア人の「ブランド」はいまだ健在だ。

 今季のCLファイナルにはモドリッチのマドリーが駒を進め、「クロアチア人選手を抱えるクラブのファイナル進出」の記録は2011-12シーズンのバイエルン(イビツァ・オリッチとダニエル・プラニッチ)から数えて13季連続に伸びた。クロアチア国内では選手の活躍ばかりが取り上げられるCLファイナルにおいて、今季に限っては監督にも耳目が集まっている。ドルトムントを率いるエディン・テルジッチだ。ドルトムントが準決勝でパリSGを破った際、クロアチアメディアの『ドネブニク』はこのような見出しの記事でテルジッチを称賛した。

 「エディン・テルジッチは、欧州王者のタイトルに挑戦する2人目のクロアチア人監督だ」

 クロアチア人として初めてファイナルを戦った監督は、前身大会「ヨーロピアンカップ」の1979-80シーズンにハンブルガーを導いたブランコ・ゼベツ。バイエルンを強豪クラブに育て上げ、イビチャ・オシムがロールモデルとしていたユーゴスラビア時代の名将だ。しかし、ゼベツはクロアチアが独立する以前の1988年に逝去している。よってテルジッチは「クロアチア国籍を所有している指導者としては初めて欧州王者のタイトルに挑戦する監督」になるわけだが、実際はドイツで生まれ育った移民2世の二重国籍者。プロ経験のないテルジッチがドルトムント監督に至るまでいかなるキャリアを歩んできたのか、その経緯も含めて彼のルーツを紐解いていこう。

2012年にドルトムントがマイスターシャーレを掲げた試合では、チームスタッフながらサポーターとしてスタンド観戦したテルジッチ。CLファイナル進出を決めた際、この12年前の写真が話題になった

祖国訪問が指導者キャリアの分岐点に。ラブコールのお相手は…

 1982年10月30日、ドルトムントから30kmほど離れた小都市メンデンで、エディンはテルジッチ家の次男坊として誕生した。父イブリシムはボスニア・ヘルツェゴビナ中部、ドガノブチ村出身のボシュニャク人(ムスリム人)。母ルジツァはクロアチア東部、オシエク市出身のクロアチア人だ。

 1960年代から1970年代の西ドイツは深刻な労働力不足に陥り、国策に基づいて外国人の出稼ぎ労働者(ガストアルバイター)を受け入れた。ユーゴスラビアからも多くの男女がブルーカラーとして西ドイツに渡り、当時は宗教や民族といった出自を意識することなく“ユーゴ同胞”のカップルが生まれた時代である。テルジッチ家のケースでは、父が出稼ぎで西ドイツに渡った直後、ボスニアに残した妻に「もう家には戻らない」という手紙を送りつけ、のちに現地で新たな女性(エディンの母)と結ばれたという。

 9歳で初めてベストファーレン・シュタディオンを訪れ、すっかりドルトムントの虜になったテルジッチ。しかし、サッカー選手としては日の目を見ず、下部リーグを転々としながらプレーを続けた(ポジションはFW)。その代わり、セミプロとして得た報酬を自分に投資し、ルール大学ボーフムでスポーツ科学を専攻。UEFA-Aライセンスの講習中にドルトムントのチーフスカウトを務めるスベン・ミスリンタートからの知遇を得て、27歳で憧れのクラブと契約する。U-19のアシスタントコーチを務めつつ、トップチームの対戦相手の分析を任せられることでユルゲン・クロップ監督からの薫陶も受けた。当時は年間500試合をチェックし、選手に関する綿密なデータベースを構築していたという。その後もスカウティングと並行してセカンドチームやU-17のアシスタントコーチを担当していたが、2012年にタレント視察でクロアチアを訪れたのをきっかけにキャリアが転換する。

 ある晩、テルジッチの評判を聞きつけた「ドマゴイ」という名の現地の代理人とレストランで一緒になり、「私の弟とも知り合いになってほしい」と電話番号を要求された。それから2日後、視察でスウェーデンを訪れていたテルジッチの携帯電話に見覚えのない電話番号から2度の着信があり、2度とも無視したところ、すぐさまショートメールが届く。画面を開くと意外な人物からのメッセージだった。

 「お願いだから折り返しで電話をくれないか。ごきげんよう。スラベン・ビリッチ」

 ビリッチはクロアチア代表監督として最後のビッグトーナメント「EURO2012」の準備に勤しんでおり、初戦のアイルランド分析をテルジッチに頼み込んだ。それも開幕3日前の依頼。最新テクノロジーを駆使して作られたスカウティング資料に目を通したビリッチは、テルジッチのハイスペックな能力に目を丸くした。

カリスマ性と雄弁ぶりで人気のあったビリッチ(左)は、2006年から6年間にわたってクロアチア代表を指揮。テルジッチ(右)の協力もあってアイルランドに3-1で勝利している

……

残り:3,995文字/全文:6,928文字 この記事の続きは
footballista MEMBERSHIP
に会員登録すると
お読みいただけます

Profile

長束 恭行

1973年生まれ。1997年、現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて銀行を退職。2001年からは10年間のザグレブ生活を通して旧ユーゴ諸国のサッカーを追った。2011年から4年間はリトアニアを拠点に東欧諸国を取材。取材レポートを一冊にまとめた『東欧サッカークロニクル』(カンゼン)では2018年度ミズノスポーツライター優秀賞を受賞した。近著に『もえるバトレニ モドリッチと仲間たちの夢のカタール大冒険譚』(小社刊)。

RANKING