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混迷を極めた二度のJ2降格。あのとき東京Vにとどめを刺した川崎Fとの彼我の差

2024.04.30

泥まみれの栄光~東京ヴェルディ、絶望の淵からJ1に返り咲いた16年の軌跡~#2

2023年、東京ヴェルディが16年ぶりにJ1に返り咲いた。かつて栄華を誇った東京ヴェルディは、2000年代に入ると低迷。J2降格後の2009年に親会社の日本テレビが撤退すると経営危機に陥った。その後、クラブが右往左往する歴史は、地域密着を理念に掲げるJリーグの裏面史とも言える。東京ヴェルディはなぜこれほどまでに低迷したのか。そして、いかに復活を遂げたのか。その歴史を見つめてきたライター海江田哲朗が現場の内実を書き綴る。

第2回は、2005年のクラブ史上初となるJ2降格に端を発したその後の凋落、そして東京Vが後にした川崎の地で台頭したフロンターレとのコントラストを綴る。

 森田晃樹が東京ヴェルディのアカデミーに入ったのは2009年のことである。

 Jリーグのクラブはサッカースクールを通じて早くから才能のある子どもに目をつけ、新小4のセレクションを経てジュニアチームに加入させる流れが通例だったが、青田買いが進み、関東では横浜F・マリノスが他に先駆けて新小3セレクションを行う。東京Vもこれに追随し、初めて実施した新小3セレクションには100人を超える応募があった。合格者はわずか3名。森田は綱島悠斗とともに難関を突破した。

 「セレクションはたまたま親が見つけてきてくれたんですが、全然乗り気ではなかったです。人がたくさん集まる場所は苦手だったし、試験みたいなのも好きじゃないし。受かったと聞いて、ああ、そうですかと。初めてのことだったので、よくわかっていなかった。後にも先にもセレクションはその一度きり。プロになりたいとか考えたことはなく、最初は練習場まで遠いなあといやいや通っていたと思います」

 東京Vの歴史において、存続が危ぶまれるほどの混迷に陥った時期だった。先を見通せない状況で、十数年後に昇格の立役者となるキャプテンが緑のシャツに袖を通していたのは、奇妙なめぐり合わせに思える。

噛み合わず、クラブ史上初のJ2降格

 崩壊の端緒は2005シーズン、クラブ史上初のJ2降格だった。

 11月26日、日立柏サッカー場――。J1第33節、東京Vは柏レイソルとの残留争い直接対決に臨んだ。1‐1で迎えた後半開始直後、矢野貴章のシュートがクロスバーをかすめて入る。そこから立て続けに3失点を喫し、完膚なきまでに叩き潰された。……

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Profile

海江田 哲朗

1972年、福岡県生まれ。大学卒業後、フリーライターとして活動し、東京ヴェルディを中心に日本サッカーを追っている。著書に、東京Vの育成組織を描いたノンフィクション『異端者たちのセンターサークル』(白夜書房)。2016年初春、東京V周辺のウェブマガジン『スタンド・バイ・グリーン』を開設した。

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