「百聞は一見にしかず」。欧州に住んじゃった記者が直面した思わぬ壁と、決意表明
遣欧のフライべリューフリッヒ#1
「欧州へ行ってきます」。Jリーグの番記者としてキャリアをスタートさせ、日本代表を追いかけて世界を転戦してきた林遼平記者(※林陵平さんとは別人)はカタールW杯を経て一念発起。「百聞は一見にしかず」とドイツへの移住を志した。この連載ではそんな林記者の現地からの情報満載でお届けする。初回は「Youはなぜ欧州へ?」を語ってもらうこととした。
「本当に来ちゃった」
取材エリアにやって来た板倉は、こちらを観て少し驚いた表情を浮かべながら開口一番、問いかけてきた。
「あれ? どうしたんですか? 本当に来たんですね(笑)」
昨年5月下旬、ボルシアMGの本拠地、シュタディオン・イム・ボルシア・パルクでの一幕だ。板倉滉がアウクスブルクを相手に見事なパフォーマンスを披露して大声援を受け、拍手を送られながらピッチを後にした直後のことだ。
同様の言葉をデュッセルドルフの田中碧からも言われることになった。この日から私、林遼平はフットボールジャーナリストとして「国内組」から「海外組」へと切り替わった。そう、拠点を日本からドイツに移し、欧州に住みながらの取材を始めたのだ。
「百聞は一見にしかず」ということわざがある。日本国語大辞典を引けば「100回聞くより1回見るほうがよくわかる。何度繰り返し聞いても、一度実際に見ることに及ばない」という意味が出てくるが、昔からこの言葉が好きだった。自分の目で見てないものを理解はできないし、わかった気になるのも好きではない。できるだけ自分で見て、経験して、その上で答えを出したい。そういう厄介な人間だった。
その気質のせいで、いまは遠くドイツにまで来ているのだから極めて楽しい人生だなと思う。
切っかけはW杯
2022年のカタールW杯。初めて記者の一人として世界最高峰の舞台での取材が可能になった時、その事実に喜びを感じる一方、その後の記者人生をあまり想像できていない自分がいた。
サッカー専門新聞の『エル・ゴラッソ』で湘南ベルマーレと東京ヴェルディ、川崎フロンターレの番記者を経験し、一つの目標として掲げていた東京五輪も全てを出し尽くす気持ちで8割以上の遠征に取材に行った結果、幸運なことに本大会の取材も許された。その流れを継続してW杯での取材も決まった。記者になる前から「やりたかったこと」をとんとん拍子で叶えることができて、”次に何をするのか”が正直なところボヤけていたし、どこか限界を感じてもいた。
ただ、W杯の決勝で戦慄が走った。初めて生で見るW杯の決勝には、今まで経験したことのないような景色が広がっていたのだ。会場の雰囲気もさることながら、ゲーム内容もスペクタクルで、言葉通りの”死力を尽くした試合”がそこにはあった。
エンソ・フェルナンデス、アレックス・マック・アリスター、ロドリゴ・デ・パウルといったアルゼンチン代表の中盤の選手たちの献身性、キリアン・エンバペの圧倒的なタレント力、そしてあのリオネル・メッシが「どうしても勝ちたい」という思いに溢れたからこそ見られた守備に奔走する姿……。同い年であるメッシの優勝カップを掲げる姿を見た時、もう一度、ここまで魂を震わせてくれるような現場に立ち会いたいと心から思った。そのために、個人として次なるステップを踏む必要があると考えるようになったのだ。
そう仰々しく書いてはみたが、次のステップを踏むなら何をするかはある程度、W杯の前に考えていたことがあった。それは海外に移住して取材をすること。前述したように、自分の目で見て、経験したい人間からすると、「世界のサッカーを現地まで見に行かずして何を言えるんだ」みたいなところもあり、欧州移住への思いはずっと胸に抱いていた。
それに、主に取材していた東京五輪世代の多くが欧州に旅立ち、せっかくならば、そういう選手たちの「東京五輪後」を追いたいという気持ちも強かった。
しかし、想像以上に欧州へ渡るのは容易ではなかった。
安定を捨て、見切り発車
……
Profile
林 遼平
1987年生まれ、埼玉県出身。2012年のロンドン五輪を現地で観戦したことで、よりスポーツの奥深さにハマることに。帰国後、サッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の川崎フロンターレ、湘南ベルマーレ、東京ヴェルディ担当を歴任。現在はフリーランスとして『Number Web』や『GOAL』などに寄稿している。