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プロ化から新旧交代まで。オランダサッカーの未来を繋いだケース・ライファースの生涯

2024.03.09

VIER-DRIE-DRIE~現場で感じるオランダサッカー~#2

エールディビジの3強から中小クラブに下部リーグ、育成年代、さらには“オランイェ”まで。どんな試合でも楽しむ現地ファンの姿に感銘を受け、25年以上にわたって精力的に取材を続ける現場から中田徹氏がオランダサッカーの旬をお届けする。

第2回では3月4日に訃報が駆け巡ったケース・ライファースの逝去に寄せて、そのオランダサッカーの未来を繋いだ生涯を振り返る。

プロ化の機運を高めた非公認選抜チーム。国外組の先駆者として

 「私はオランダプロサッカーの第1世代です」――1940年代後半から50年代にかけて名ドリブラーとして活躍したケース・ライファースは言った。

 第2次世界大戦真っ只中の44年、17歳でNACのトップチームにデビューしたブレダのタレントは、46年3月16日のルクセンブルクとの親善試合でオランダ代表初キャップを刻む。クラブでも代表でもデビューマッチでゴールを決めた“持っている男”は、NACで遠征しても飲み物代として小銭しかもらえないことにウンザリしていた。

 ライファースはアベ・レンストラ、ファース・ウィルケスとオランダ代表で『インサイドFWの黄金トリオ』と呼ばれる脅威のユニットを組んでいた。そんな彼らに、国外のプロチームから誘いがかかる。49年、ウィルケスはシェルシェスからインテル(イタリア)へ移籍し、ライファースは50年にサンテティエンヌ(フランス)とプロ契約を結んだ。

 彼らの国外移籍は『インサイドFWの黄金トリオ』が解散することを意味した。当時、KNVB(オランダサッカー協会)はアマチュアリズムに固執し、プロ選手を代表チームから排除していた。しかし欧州諸国が次々にプロ化を推進していく中、トッププレーヤーの流出はとどまらず、オランダ代表は情けないまでに弱体化。49年11月のベルギー戦から53年9月のノルウェー戦まで21戦1勝3分17敗という悲惨な時期を過ごしていた。

 そんなオランダサッカー界でプロ化の機運を高めた有名な試合がある。それは53年3月12日、パリのパルク・デ・プランスで行われたフランス対オランダ・プロ選抜だ。

 これは同年の2月1日、1836人の死者が出たオランダの大洪水の援助を目的にしたチャリティーマッチ。実はフランスサッカー協会が真っ先に開催を申し入れていたのだが、プロ軍団の強豪国を恐れたKNVBはデンマーク代表を招いて3月7日にスタディオン・フェイエノールトで慈善試合を実施。オランダは1-2で敗れていた。

 一方、国外(主にフランス)でプレーするオランダ人プロ選手たちも母国の自然災害に胸を痛め、KNVB非公認のオランダ・プロ選抜チームを結成。オランダから訪れた8000人のファンが見守る中、ライファースも参加した即席チームが1-2でフランスを破ってしまった。

 「プロが加われば、オランダもフランスに勝てる」と、一気にオランダ国内でプロ化の機運が高まり、KBVB(オランダ職業サッカー協会)という組織が53年末に発足。54-55シーズンから10チームによるプロリーグが始まった。このシーズン、従来通りオランダ全国リーグを開催していたKNVBはもうプロ化の波は止められないと悟り、その年の11月にKBVBを吸収合併。あらためてプロリーグとしてシーズンを再スタートした。

 そのことはまた、オランダ代表の門戸がプロ選手に開かれたことを意味していた。

 ライファースの代表復帰はフェイエノールト時代、57年9月11日のW杯予選、ルクセンブルク戦。およそ8年ぶりに再結成された『インサイドFW黄金のトリオ』はライファースとウィルケスがそれぞれ1ゴール、レンストラが2ゴールを決めて、ベテラン健在をアピールし、5-2の圧勝に貢献した。

 サンテティエンヌでは165cmの小柄な体を生かして、軽々と敵をかわし『キックスクター』の異名を戴いたドリブラーは、国外に渡ったオランダ人勢のパイオニアとして、オランダサッカーのプロ化に影響を与えた1人だった。

トゥエンテに残したDNA、PSVにもたらしたステータス

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Profile

中田 徹

メキシコW杯のブラジル対フランスを超える試合を見たい、ボンボネーラの興奮を超える現場へ行きたい……。その気持ちが観戦、取材のモチベーション。どんな試合でも楽しそうにサッカーを見るオランダ人の姿に啓発され、中小クラブの取材にも力を注いでいる。

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