杜の都に帰った郷家友太の献身。“普段着のヒーロー”がこの地でもっと輝くために
ベガルタ・ピッチサイドリポート第4回
それは覚悟の帰還だったはずだ。宮城県多賀城市出身。昨シーズンまでヴィッセル神戸でプレーしていた郷家友太は、自らが小中学生時代を過ごしたクラブでもある、J1復帰を目標に掲げるベガルタ仙台へ戻ってきた。そんな地元出身の若き才能は、数多くの人たちに見守られ、応援されて、ユアスタのピッチに立ち続けている。今回もおなじみの村林いづみが、郷家を昔から知る方々にお話を伺いながら、“地元ヒーロー”の実像に迫る。
トンネルを抜けるきっかけは「ヘアバンド」だった
うまくいかない時期が続くと、誰しもが思うはずだ。
「今日は、いつも通らない道を通ってみようかな」
「違う靴を履いてみるか」
「ちょっと髪色でも変えてみようか」
日常の何かを変えてみる。それは気休めか、ただの気分転換か。もしかしたら自己満足なのかもしれない。そもそも、そんなことをしても全く意味はないのかもしれない。でもそんな、”小さなきっかけ”が、多くの人を歓喜に導く大きな力に変わる可能性もある。
小さなきっかけ。郷家友太の場合、それは試合時の「ヘアバンド」だった。ベガルタ仙台が11試合勝利なしのトンネルをようやく抜けた第31節大宮アルディージャ戦、試合前のことだった
「この前、白をつけて勝てなかった。だからこっちにしよう」
直感で手にしたのは、ベガルタのチームカラーに比較的近いライトイエローだった。(ちなみに彼はこのヘアバンドを色違いで7色所有しているらしい)。「明るい方がいいかなと思って」
試合でイエローをつけるため、ウォーミングアップ時には白を着用した。いざ戦いのピッチへ。戦闘服に着替え、本番用ヘアバンドへ念を込めて、丁寧に身につけた。
「今日、必ず勝つぞ」
強い決意で向かった試合の90+5分後、最後までピッチに立ち続けた郷家は、疲労感と充実感に満たされていた。取材エリアでは「苦しかったです。勝つまで、めちゃめちゃ長かったです。でもこうやって一度勝てば勢いがつくと思うので、継続していく。勝利は始まったばかりなので、冷静に次も頑張りたいと思います」と笑顔を浮かべた。
郷家友太には、地元である“杜の都”で勝たなければいけない理由がある。活躍しなければいけない理由がある。彼の後ろには、その活躍を心から待ち望んでいる「大応援団」がいるのだ。
地元に帰ってきたシーズン。多賀城の星はチームの「トップスコアラー」
郷家友太の出身地、「宮城県多賀城市」は仙台市の北東に隣接するベッドタウンで人口6万人ほどの小さな都市だ。しかしその歴史は古く、かつては「陸奥国府」が置かれるなど、古代東北の政治・文化の中心として繁栄した町で、来年には創建1300年を迎える。郷家はその多賀城で産声を上げ、サッカーと出会った。
実はこの「多賀城周辺」は県内有数の「4種年代・サッカー激戦区」でもある。少し車を走らせると、遠藤康を輩出した「なかのFC」(仙台市宮城野区)や加藤久、鈴木武一、佐々木勇人らを生んだ古豪・塩釜FC、更にはJFLソニー仙台FCのアカデミーなどがあり、多種多様な環境でサッカーに取り組むことができる。郷家が第一歩を踏み出したのは、最寄りの「鶴ケ谷サッカースポーツ少年団」(以下、鶴ケ谷SSS)。小学1年生の後半に、小さな町クラブの門を叩いた。
「一言で言うと、サッカーのセンスがずば抜けていました。2年生くらいで、4年生の子と対等にプレーする。教えなくても、ボールの置き場所はもうわかっている感じでした。印象に残っているのは、4つのゴールを使ってポゼッションするメニューで、最初にボールを受ける位置がものすごく良かったこと」
そう教えてくれたのは当時郷家を指導し、現在も鶴ケ谷SSSの代表を務める赤間正孝さんだ。めきめきと実力を発揮した郷家は、小学3年生時にベガルタ仙台のセレクションを受け合格。ベガルタ仙台のジュニア、ジュニアユースでプレーし、中学の途中からは青森山田中学校へ「転籍」する。青森山田高等学校では2年生で全国高校サッカー選手権、プレミアリーグの2冠を達成。J1のヴィッセル神戸へと入団した。
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Profile
村林 いづみ
フリーアナウンサー、ライター。2007年よりスカパー!やDAZNでベガルタ仙台を中心に試合中継のピッチリポーターを務める。ベガルタ仙台の節目にはだいたいピッチサイドで涙ぐみ、祝杯と勝利のヒーローインタビューを何よりも楽しみに生きる。かつてスカパー!で好評を博した「ベガッ太さんとの夫婦漫才」をどこかで復活させたいと画策している。