【サッカー小説】狼のサンバ:VOL.5「老いた狼」
天才達はスルスルと行く
「どうプレーするか言われる必要のない選手とともにあることができるかどうか」
ブラジル代表に110勝をもたらしたマリオ・ザガロ監督の大方針である。
1970年は、まさにそのような選手とともにあった。ペレとトスタンがいて、リベリーノ、ジェルソン、クロドアウドもいた。74年、ペレは引退していて、トスタンも網膜剥離によってプレーをやめてしまった。「どうプレーするか言われる必要のない選手」はリベリーノだけで、準決勝でトータルフットボールのオランダに敗れた。アデミール・ダ・ギアはいたが、なぜか3位決定戦まで起用されなかった。
78年はザガロの弟子クラウディオ・コウチーニョが率いて3位。リベリーノとジーコは負傷もあって本大会では限定的に起用されただけ。74年に続いて、欧州コンプレックスから体力を重視し過ぎた結果と言える。ここでひとまずザガロ人脈のセレソンが終わる。
82、86年はテレ・サンターナが指揮を執った。ジーコ、ソクラテスを中心としたセレソンは「らしさ」が蘇った。ただし、戦績はいずれもベスト8まで。ベスト4を外したことがなかったザガロ時代からは後退している。
<これこそ、私が率いたかったセレソンだ>
82年のチームを見て、ザガロはそう思っていた。同時に<これでは勝てない>とも。
テレ・サンターナの82年は、「どうプレーするか言われる必要のない選手」がそろっていた。そしてジーコ、ソクラテスの2人の「天才」もいた。ブラジルの、というよりフットボールの「天才」には共通点がある。人の間をスルスルと抜けていく能力だ。
良い選手を超えて「天才」と人々が認識するのは、主にこの能力を目にした時である。3、4人のDFをごぼう抜きにするドリブル――ペレ、ジーコ、ディエゴ・マラドーナ、ヨハン・クライフはみなこれができた。そして彼らは一人ひとりにフェイントをかけたりしない。足下にボールを置いたまま、スルスルと人の間を抜けていくのだ。1対1の連続に勝利するのではなく、まとめて置き去りにする。ほぼ真っ直ぐドリブルしているだけで全員抜いてしまう。
そして彼らは例外なくパスも上手い。単なるドリブラーではないのだ。崩しの原理が体の中にある。ドリブルかパスかは染みついた原理が教えてくれるのだ。
2人のDFがいるなら、必ずその中間点を狙う。察知したDFはそこを締めるが、そうするとDFの外側は必ず開く。まだ空いていれば突破、締めるなら外へ。どっちにしても置き去りになる。3人並んでいたら守備側にはさらに絶望的な状況が待っている。3人のDFは1カ所の間を締めたら、もう1カ所は必ず広がるからだ。3人固まったら、パス1本で全員が置き去りにされる……。原理自体は単純だが、これを教えて身に着けさせるのは容易ではない。成長過程で自然にそれを体得している「天才」を選ぶのが代表監督の仕事になる。「どうプレーするか言われる必要のない選手」であり、逆に言われなければならない選手は何年かかるかわからないので最初から対象外になるわけだ。
天才がそろうと「タベーラ」ができる。ポルトガル語のtabelaは順位表などの「表」の意味だが、フィールドでは「壁パス」を指す。ただ、タベーラはもう少し深い。崩しの原理を内包した者同士のコンビネーションと言っていいかもしれない。ペレとトスタン、ジーコとソクラテスはタベーラの名コンビだった。まず感性、そして推進力、崩しの原理を感覚的に理解していて、体のあらゆる部分を使ってパスをリターンする技巧……ソクラテスは「受け」の名手で長いリーチを利してのヒールパスが十八番だった。
……
Profile
西部 謙司
1962年9月27日、東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、会社員を経て、学研『ストライカー』の編集部勤務。95~98年にフランスのパリに住み、欧州サッカーを取材。02年にフリーランスとなる。『戦術リストランテV サッカーの解釈を変える最先端の戦術用語』(小社刊)が発売中。