ポストヒューマン時代のワールドカップ――「三笘の1ミリ」と揺れる「人権問題」
社会から文化まで!W杯スペシャルコラム
今やいちスポーツのビッグイベントの枠を超え、様々な影響を与えるワールドカップ。社会や文化など、オフ・ザ・ピッチのトピックについて論じる。
スポーツのテクノロジー化とソーシャル化をテーマにした『ポスト・スポーツの時代』の著者である成城大学教授の山本敦久氏に、カタールW杯での最先端テクノロジー導入で起きた変化、そして人権問題をめぐる様々な動きについての見解を聞いた。
「三笘の1ミリ」は「神の左足」と呼ばれるのか?
「三笘の1ミリ」が世界を駆け巡った。この現象は、サッカーのピッチ上にもはやマラドーナが棲む場所はないという宣告でもあった。
マラドーナの「神の手」における「神」とは、サッカーの世界に降り立ったディオニソス神である。かつて哲学者のニーチェが描き出した「ギリシャ悲劇」の構図は、世界の秩序や規律を司るアポロンと、溢れ出るエネルギーの狂騒を体現する反秩序の神であるディオニソスが拮抗する闘いに劇的なものを見るというものだ。資本主義がもたらす苛烈な経済格差――「南北問題」に見舞われた80年代のイタリア社会。「北」の経済的豊かさに敵対する「南」の大衆たちの抑えきれない集合的な力が結集した化身こそ「ナポリのマラドーナ」であった。
イタリアにおける貧富の構図は、W杯においてグローバルな格差へとスライドした。欧州中心のサッカー資本主義化が世界の隅々を覆うようになる少し前、W杯メキシコ大会のピッチ上を遊動するマラドーナの身体には、秩序と規律の神アポロンに対抗するグローバルサウス(南の貧困)を勇気づける神が憑いた。サッカーの本源的・激情的な技芸をまとったディオニソス神が舞い降りたのである。手を使ってのゴールというサッカーにおける反秩序的行為は、グローバルサウスを味方につけることで、マラドーナ自身がのちに振り返るように「神の思し召しによって許された」のである。
では、サッカーの新時代を予告した「三笘の1ミリ」には、神が舞い降りたのだろうか?
VARは新しい神なのか?
2022年カタール大会では、ピッチ上を隙間なく半自動的に監視し続けるトラッキングカメラと高性能チップが内蔵されたサッカーボール、そしてAI(人工知能)による情報処理技術からなる複合的ネットワークによって実現される高度なVARシステムが試合の行方を左右した。その象徴的なシーンの1つが「三笘の1ミリ」に体現された。この出来事は、審判の目やルールの裏をかくことを含めたサッカーの魅惑的な技芸(マリーシア)が寛容に共有される時代の終焉を予感させるものだった。
広大なピッチの中のわずか1ミリを見逃さないVARシステムは、紛れもなく2022年に訪れたサッカー新時代のアポロンだろう。もはや人間の認知や感性などという気まぐれで不確実なものがプレーを判断するのではない。ルールと秩序の守り神は、「超アポロン」となってテクノロジーが実現するネットワーク・システムへと憑依したのである。どうやら神は、三笘の左足に宿ることを選ばなかったようだ。
こうした現象は、いわば人間の「格下げ」を予言するものでもあるだろう。いや、むしろ人間はこの地球上において必ずしも特権的存在ではなくなっていることが明確に可視化されたと言い換えた方が正確かもしれない。人間の特権的存在性の解体は、21世紀における哲学・現代思想界では「ポストヒューマン化」という新たな動向として世界中で注目されている。
「ポストヒューマン」とは、文字通り「人間以後」を意味する。生身の人間は、最先端の科学技術と融合することによって別の存在へと移行しつつある。この潮流の中で、人間と非人間、人間と機械、人間とモノは、関係性の中に等しく置き直される。現代サッカーのVARシステムのように、人間というアクターと最先端テクノロジーというアクターからなる複合的ネットワークがあってはじめて出来事や行為が実現するようになる時、そこには従来の人間像ではなく、ポストヒューマンという新しい行為体(エージェンシー)が立ち現れているということになる。
「ポストヒューマン化」するサッカー
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Profile
山本 敦久
1973年生まれ。成城大学社会イノベーション学部教授。最先端テクノロジーと融合するスポーツをポスト・スポーツの出現として捉えつつ、SNSなどの新しいメディアと連動するアスリートたちが反人種差別やLGBTQと結びつきながら既存の社会を変革していく時代のスポーツについて研究していく。主著として『ポスト・スポーツの時代』(岩波書店)、『アスリートたちが変えるスポーツと身体の未来--セクシュアリティ・技術・社会』(岩波書店)、『ポストヒューマン・スタディーズへの招待』(堀之内出版)など。