西サハラ問題、不法移民問題が未解決…世界史でみるモロッコ対スペイン
社会から文化まで!W杯スペシャルコラム
今やいちスポーツのビッグイベントの枠を超え、様々な影響を与えるワールドカップ。社会や文化など、オフ・ザ・ピッチのトピックについて論じる。
6日にカタールW杯ラウンド16で激突するモロッコとスペイン。この対戦カードを一目見て「ある歴史的問題がチラつく」と呟いたのは、 「わっきー」こと脇真一郎氏だ。両国の関係性を高校の社会科教師でサッカー部監督でもある彼に解説してもらった。
W杯もグループステージが終わり、世界を代表する16の国が出そろった。惜しくもPK戦の末に8強進出こそならなかったものの、日本が強豪国であるドイツ、スペインを破って堂々の1位通過を決めたことは、みなさんの記憶にも新しいだろう。おかげで街を歩いていてもW杯の話題を目や耳にすることが多い。
しかし、その陰で私のような歴史マニアが暗躍していることを忘れてはいけない。グループステージでもイングランド対アメリカ、イラン対アメリカなど、つい「裏側」に想いを馳せてしまう組み合わせも少なくなかったからだ。そして決勝トーナメント表を一目見て「あ」と声が出てしまったのが、モロッコ対スペインのカードであった。
まず地図を片手に確認していただきたいが、両国はジブラルタル海峡の最も狭いところで約14kmしか離れておらず、地理的には「隣」と言って差し支えがない。そんな両者の関係が希薄なわけもなく、現在進行形で未解決の問題を抱えたままでもある。特に領土問題とそれに関わる政治的問題について、歴史的経緯をたどりながら概要を見ていこう。
モロッコの歴史とスペインとの関係
北アフリカの地中海沿岸部は、古くはベルベル人と呼ばれる人々が定着し、さらにはフェニキア人や古代ギリシア人の入植、そしてローマ帝国の支配と目まぐるしく地図が書き換えられていく。ゲルマン人の大移動によってバンダル族が定住し、8世紀にはイスラム勢力の進出によってアラブ人の支配下に入り、イベリア半島を含めた広い地域が版図となるに至った。
イベリア半島ではイスラムの支配に抗い、この地からイスラム勢力を排除しようとするレコンキスタが始まる。この最中の1415年、ポルトガルのエンリケ航海王子は北アフリカに進出。要衝であったセウタを占領することに成功していた。
その後、アフリカ西海岸を大陸南端目指して探検航海するポルトガルの隣で、未だ領内にイスラム勢力が残存していたスペイン(この時点ではアラゴン=カスティーリャ連合王国)はレコンキスタを継続中だった。
1492年、ナスル朝グラナダ王国を倒してレコンキスタを完了させたスペインは、コロンブスをアジア航海へと派遣する一方、北アフリカ沿岸部の征服も実施。1497年にはメリリャを含むいくつかの港湾都市を占領した。さらに1580年のポルトガル合邦以降、セウタもスペインの支配下となる。
その後、モロッコの地ではいくつかの王朝が興亡。やがて19世紀前半にはフランスの進出を受けることとなる。その後もヨーロッパ列強のアフリカ進出における係争の地となるが最終的に1912年、領土の大部分がフランス領モロッコとなった。
この時、北辺のリーフ地域(セウタやメリリャを含む)やフランス領より南側がスペイン領に。これが「スペイン領サハラ」と呼ばれた地域である。2つの世界大戦を挟み、1956年にモロッコはフランスから独立を果たす。残されたスペイン領をめぐって、まず1963年にモロッコとモーリタニアがスペイン領サハラの領有権を主張した。……
Profile
脇 真一郎
1974年10月31日、和歌山県生まれ。同志社大学卒。和歌山県立海南高等学校でサッカーと出会って以降、顧問として指導に携わる。同県立粉河高等学校に異動後、主顧問として指導を続け7シーズン目となる。2018年5月に『フットボリスタ・ラボ』1期生として活動を開始して以降、“ゲームモデル作成推進隊長”として『footballista』での記事執筆やSNSを通じて様々な発信を行っている。Twitterアカウント:@rilakkumawacky